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伊香保(いかほ) |
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近代文学との関わりも深い伊香保は、既に『万葉集』巻十四に ・伊香保ろに天雲いつぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら(万葉集3428) ・かみつけの伊香保の沼に植ゑこなぎかく恋ひむとや種求めけむ(万葉集3434) ・伊香保嶺に神な鳴りそねわが上には故はなけども児らによりてぞ(万葉集3440) ・伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど吾が恋のみし時なかりけり(万葉集3441) ・かみつけの伊香保の嶺ろに降ろ雪の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり(万葉集3442) 等、「伊香保の沼(榛名湖)」「伊香保嶺(榛名山)」などの形をも含めて、「上野国歌」二十二首のうち八首にその地名が見えており、群馬の最も代表的な歌枕であったかの観がある。そしてそれが、「風」「神(雷)」といった、現在でも群馬の風物の典型とされているものと取り合わせられているのが興味深い。だが、平安時代に入って、伊香保詠は一変してしまったようだ。 ・呉竹の世々のふることなかりせば伊香保の沼のいかにして思ふ心をのばへまし…(古今集1003忠岑) ・伊香保のや伊香保の沼のいかにして恋しき人を今一目見む(拾遺集859詠人不知) ・かくれなく逢はずなりなばみちのくの伊香保の沼の我いかにせん(古今和歌六帖1685) ・かんつけの伊香保の沼に植ゑしなぎかく恋ひんとや種もまきけん(古今和歌六帖3867) 平安時代中期の文献に見える伊香保詠は上の如くだが、数量の減少もさりながら、その質的変容に注目せねばなるまい。これらの例における伊香保は、『万葉集』と重複する「かんつけの」詠を除けば、全く実体としての姿を留めていない。「いかにして」「いかんせん」を同音で導く序詞的役割を果たすのみなのである。院政期に入って、 ・東路の伊香保の沼のかきつばた袖のつまより色ことに見ゆ(堀河百首・源顕仲) の詠もあるが、概して言えば、王朝歌人達にとって伊香保は疎遠であった、と認めざるを得ないであろう。 鎌倉時代になり、順徳院内裏歌壇で行われた「内裏名所百首」において、伊香保沼は夏題の一つに選定された。その背景は明らかでないが、歌枕伊香保の沿革を辿る上で、一度に十二首もの詠を生み出したこの百首歌の意義が極めて大きい事は疑いない。 ・真薦生ふる伊香保の沼のいかばかり波越えぬらん五月雨の頃(内裏名所百首・順徳院) ・こなぎ植ゑし伊香保の沼のあやめ草長きほどをば誰もとめけん(内裏名所百首・行意) ・から衣かくる伊香保の沼水に今日は玉ぬくあやめをぞ引く(内裏名所百首・定家) ・影くらき伊香保の沼は夏草の露のみぎはに月ぞやどれる(内裏名所百首・俊成卿女) ・思ふことあやめの草の長き根に伊香保の沼のいかで残らん(内裏名所百首・兵衛内侍) ・五月雨に伊香保の沼のあやめ草今日はいつかと誰か引くらん((内裏名所百首・家隆) ・五月雨に伊香保の沼のあやめ草刈る人なみにくちやはてなん(内裏名所百首・知家) ・おりたちて引く手に夏はなぎの葉の伊香保の沼のいかがすずしき(内裏名所百首・範宗) 平安時代に確立した、「いか」を導く序詞的用法はここにも少なからず見えるが、実体を伴わないレトリックのみのそれではなく、実体そのものをも兼ねた、いわゆる有心序となっている。それは、詠法の変化と見るより、題意によってもたらされた必然的な結果と考えるべきであろう。また、取り合わせられた景物に注目すると、「なぎ」「こなぎ」との結合に万葉歌との脈絡が辛うじて窺われるものの、「真薦」「五月雨」「あやめ草」等、万葉歌に見えなかった素材との結合を獲得しつつあるかの様相を呈している。だがそれは、伊香保のイメージの変化ではなく、夏題としての制約を受けながら何れの沼とも取り合わせられそうな素材と結合したに過ぎない、言わば伊香保の没個性化ではないだろうか。 だが同時に、この百首歌が歌人達の歌枕伊香保の記憶を喚起させたであろう事をも評価せねばなるまい。この後に伊香保詠が頻出する、といった事態には至らなかったが、例えば「新撰和歌六帖」の沼題で五人の出詠者のうち二人が伊香保沼を詠み、また、 ・伊香保風吹く日吹かぬ日まじらはばなど我が袖のほす時のなき(宝治百首・定嗣) ・くちなしにさえたる雲のかかれるは伊香保の嶺ろに雪ぞ降るらし(夫木抄7261顕朝) といった、『万葉集』の歌枕である事を思い起こしたかのような口吻を示す和歌もよまれるようになったのである。 |
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