群馬県立女子大学
群馬学の確立にむけて

「鉢木」の舞台 佐野

石川泰水

写真

常世神社

 群馬の地を舞台とする古典文学作品でもっとも有名なものの一つが、謡曲「鉢木」である。大雪の夜、旅僧に身をやつした最明寺入道北条時頼が、上野国佐野で佐野源左衛門常世のもとに宿を求め、常世は秘蔵の鉢の木をたいて暖をとらせ、後に鎌倉からの召集に真っ先に駆けつけた時に、一夜のもてなしへの返礼として、時頼から梅・桜・松の名を持つ三つの土地を賜った、という話である。話に聞き覚えがあっても、舞台が群馬県内であることを知らない人も多いかもしれない。佐野の地の所在を言い当てられる人は、むしろ少数だろう。高崎市内、上佐野町・下佐野町・佐野窪町といった町名にかろうじて名を残す烏川の東岸の地であり、この話にちなんだ常世神社という小さな神社が建てられている。
  ところで主人公である佐野源左衛門常世は実在人物ではなく、また特定のモデルがいたわけでもないらしい。だとすれば自然と一つの疑問がわいてくるだろう。群馬県民にさえ馴染み深いわけでもないこの佐野が、なぜ「鉢木」の舞台とされたのだろうか、と。
  実は佐野は上毛三碑の碑文に見える古い地名で、『万葉集』上野国東歌の中にも多く登場する。そこに見える「佐野の舟橋」は『枕草子』の「橋は」の段に取り上げられ、また平安時代以来和歌に多く詠まれた、群馬を代表する歌枕(和歌に登場する地名)であった。『新古今集』の代表的な歌人藤原定家の名を冠した定家神社がここにあるのも、そんな関係だろう。そして「鉢木」同様、佐野を舞台とする謡曲「舟橋」というものも存在する。
  佐野は、古典文学の世界において群馬でもっとも名高い地であった、と考えて良かろう。それで疑問のすべてが解決されるわけではないが、まずは前提として、佐野という地の意義を再認識することが重要であると思うのである。(群馬県立女子大学教授)

いしかわ・やすみ 埼玉県出身。東京大卒。同大学院人文科学研究科単位取得退学。昭和61年に県立女子大学に赴任し、現在、同大教授。日本文学専攻、とくに中世和歌の研究を専門とする。著書に和歌文学大系23「式子内親王集・俊成卿女集・建礼門院右京大夫集・艶詞」(共著)。