群馬県立女子大学
群馬学の確立にむけて

1本のネジから近代化

日下洋右

写真

東善寺境内の小栗忠順の胸像(『全集写真探訪ぐんま 2 歴史の散歩道2』(上毛新聞社)より)  

 群馬にゆかりのある印象深い人物の一人は、現在の倉淵村権田に領地を有していた小栗上野介忠順(ただまさ)(1827-68)である。小栗忠順は幕府という旧体制の重臣であったが、彼が時代を先取りした日本の将来像を構想した進取の気性に富む人物であったことは注目に値する。彼の進歩的な考え方は、アメリカ合衆国の視察が源泉になったとみてよい。幕府は1858年に結んだ日米修好通商条約の批准交換のため、60年にアメリカに派遣する使節団の実質的なリーダーとして34歳の小栗を抜擢した。
  アメリカを視察して彼が衝撃を受けたのは、巨大な蒸気船を建造する先進技術であった。彼はアメリカの国力の原動力が、蒸気船を生み出す工作機械とそれを用いる工場であることを認識したのである。帰国する小栗の手には一本のネジが握られていた。巨大蒸気船の建造は、結局精密なネジを大量に生産する技術力から始まることを実感したからである。この一本のネジには、日本をアメリカのような一大工業国にしたいという彼の大望が潜んでいたとみるべきである。一本のネジから、彼は造船所こそ海に囲まれた日本の近代化と工業化を進める第一歩となることを悟ったとみてよい。1865年に小栗の主張した造船所の建設が認められ、67年に横須賀でドックの建設が開始された。建設は明治政府によって引き継がれ、小栗が新政府軍の手によって斬首された3年後の71年に、ドックはフランスの技術と援助とによって竣工した。 
  小栗が残した遺産は造船所だけではない。アメリカから帰国後、彼は大名を廃し、藩を郡や県に改め、大統領制を敷いて日本を近代的な統一国家にしようと構想したからである。大統領制を除けば、彼の構想はそのまま明治政府によって採り入れられた。小栗忠順こそ日本の近代化と工業化の先駆者といっても過言ではない。(県立女子大学教授)

くさか・ようすけ 北海道育ち。東京教育大学大学院修士課程修了。鳥取大学、信州大学を経て現職。アメリカ文学専攻。著書に『ヘミングウェイ―ヒロインたちの肖像』、『ヘミングウェイ―愛と女性の世界』、『ヘミングウェイの時代―短編小説を読む』など。