オピニオン21・視点
土屋文明の墓に詣でて
松 本 鶴 雄
最近、必要があって土屋文明の墓所を訪ねた。埼玉県小川町の近くだというので、友人の車に乗せてもらって、出掛けた。小川町は秩父の外側で八高線と東武東上線が交差した、小京都といわれた盆地の中の、ひなびた静かな町で、和紙の製造と酒醸造で知られている。その郊外の慈光寺に土屋家の墓地はある。地図で見たときは慈光寺はそれほど遠く感じなかったが、行って見ると、行けども行けども森林の中で、秩父に抜けてしまうのではないかと不安になったほどであった。場所は小川町でなく、都幾川(トキカワ)村になっていた。その先の定峰峠を越えれば、武甲山の麓の秩父盆地である。墓地はその大きな寺苑のとっつきにあった。その近くからの足元に開ける、関東平野の眺望はすばらしかった。
土屋文明は奥さんが亡くなる前から、ここの分譲墓地を求めたいと思っていた。一度、奥さんと現地を見学に行くつもりでいたが、それを果たさないうちに昭和五十七年、テル子夫人は亡くなった。京都深草に葬ってあった長男の遺骨とともに、比企郡都幾川村の慈光寺の墓地に埋葬したのが、昭和五十九年のことである。それから六年後に文明は百歳の長寿の中で亡くなったが、その少し前に、テル子夫人や長男の眠る槻川の水源にある墓地を懐かしんで、次のような歌を作っていた。「亡き後を言ふにあらねど比企の郡(こほり)槻(つき)の丘には待つ者が有る」。童心に帰った境地というべきか。
この墓地は谷や尾根を伝わって、山道の果てのような位置にある。そのため訪れる人もまれで静寂と幽翠の地である。近くに東京大学の天文台がある。元は東京の三鷹郊外にあったのだが、そこは夜間でも都会の昭明がしだいに激しく迫ったので、完全な闇夜を求めて、だいぶ前にここに移転した。だから、この地はそこへ行く道も昼なお暗い所が多く、それほどに人里離れているわけだ。そういう場所をついの棲み家に選ぶということ、そこからも文明の世界観、自然観がよみとれるような感じがする。
今年になって、群馬町に土屋文明記念文学館ができた。私も早速でかけた。そこは文明の生まれ故郷の地であった。そこからの榛名連峰のみはらしも良かった。ただ付近に彼の生まれたころの雰囲気は、今は求めるべくもないが、わずかに小川の流れや、畠のただずまいや、周囲の山波が往時を偲ばせてくれる。建物もモダンの中に落ち着いた古典趣味が生かされていて、こじんまりしているだけ、暖かな感じである。高崎行のバスが中々来ないので、おかげで、あたりの風景を良く観察できた。東南に平野が開け、その向こうに関東平野が広がっている。その途中に、文明の眠る比企の丘があるはずだと思い、背伸びして見たが、さすがにそこからは比企は遠く、彼方の雲以外なにも見えなかった。96/10.23(上毛新聞掲載)