太宰 治(だざい おさむ)
渡 邉 正 彦
1909(明治42)年6月19日〜1948(昭和23)年6月13日。 昭和10年代、20年代の日本文学を代表する作家の一人で「道化の文学」「滅びの文学」とか「無頼派」「新戯作派」などと称されている。 本名津島修治。 青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山に11人兄弟姉妹の第10子6男として生まれる。 生家は250町歩の大地主で県内屈指の素封家。 父源右衛門は銀行頭取、衆議院議員、多額納税貴族院議員なども歴任した。 長兄文治も後に県会議員、衆議院議員、県知事を歴任している。 生家の地位や上京後に人妻との心中で自分だけ生き残ったこと、弘前高校時代から東大仏文科在学時代に深くかかわっていた共産主義運動からの離脱などは太宰の罪悪感や反抗心、デカダンスの原因ともなった。 中学時代から創作に熱中、早く井伏鱒二の才能に注目し、上京後の昭和5年5月に神田の出版社で初めて逢い、師事することになる。 弘前高校時代に関係のあった芸妓紅子(小山初代)を上京させ、分家除籍して結婚。 昭和8年3月の「海豹」3月号の「魚服記」が識者の注目を受け、「思ひ出」も連載完結、9年には遺書のつもりで書いた『晩年』の14編も完成した。 10年に創刊された「日本浪漫派」の同人に参加、この年は東大を除籍になり、鎌倉で縊死未遂も引き起こし、さらに盲腸炎から腹膜炎を併発してその疼痛鎮痛のために医師が打ったパビナール注射がきっかけとなり、重い中毒となった。 11年に『晩年』(砂子屋書房)を刊行、8月に中毒と肺病を治すため単身で群馬県谷川温泉に行き、利根郡水上村字谷川522番地の佐藤亀次郎経営の川久保屋に20日間前後滞在した。 同年10月に妻小山初代や長兄の代理人たちや井伏鱒二などはからいで、中毒治療のため東京武蔵野病院に約一ヶ月の入院中に妻が姦通事件を起こし、退院後、「HUMAN LOST」「二十世紀旗手」などを執筆したが、妻の裏切りを知り、入院によって引き起こされた人間不信に重なる衝撃を受け、昭和12年3月20日前後に妻と二人で谷川温泉の川久保屋に1泊、翌日谷川岳の山麓で睡眠薬による心中をはかったが未遂に終わり、下山後、そのまま離縁した。 この事件は「姥捨」(13・10「新潮」)に虚構を交えて描かれている。 水上町字芦間に昭和57年12月に文学碑が建立された。 その後、太宰は富士を展望する御坂峠の天下茶屋に滞在し、甲府の石原美知子と見合結婚、東京三鷹市に新居を構え、生活も安定し、「満願」「黄金風景」「富岳百景」「女生徒」『右大臣実朝』「お伽草紙」『津軽』などのいわゆる中期の明るい作風の時期を送った。 しかし、敗戦後の日本に絶望し、再びデカダンな生活に陥り健康も害し、『斜陽』『人間失格』などの晩年の代表作を発表後、「グット・バイ」を遺作に山崎富栄と玉川上水で入水を遂げた。