半田義之(はんだ よしゆき)

松 本 鶴 雄

 半田義之は明治四十四年(一九一一年)七月に横浜市保土ケ谷で生まれた。父・義三は横浜の会社員であったが、半田義之が十歳のとき病死した。母・トシと共に彼は大正十年、異父姉が前橋市北曲輪町に住んでいたのを頼って、初めて群馬の地を踏んだ。彼はこの姉とは十七歳違っていた。ていのいい母子づれの居候であった。大正十三年(一九二四年)に旧制の県立前橋中学に入学し、同人雑誌「無限」に参加し、文学世界へ早くも関心を集中させていた。しかし、姉に頼った中学生活も長く続かず、折からの昭和の大不況のあおりで、昭和二年(一九二七年)には前橋中学を四年で退学し、国鉄に入社した。最初は千葉駅の電信係として十六歳の半田少年の社会人生活は始まったわけである。これ以後は生活面での彼と群馬の関係はなくなり、母をともなって千葉や東京を転々とする。
 昭和の初めはプロレタリア文学全盛期で、中央の文壇でも多数の読者を擁した「戦旗」や「文芸戦線」などの、プロレタリア文学系の雑誌がはばを利かせていた。今風にいえば「文芸戦線」はアナーキストや社民党系で、「戦旗」は共産党系であり、両者の指導権争いをめぐる抗争は劇列を極めていた。半田義之は国鉄労働者としての実生活から「戦旗」系に親しみを寄せ、プロレタリア文学風の小説を書き溜めて、「中央公論」等の懸賞小説に応募したりした。また千葉県内の国鉄駅に勤務しながら東京の有名同人雑誌にかかわり、交友関係も広がって行った。その成果の一つが昭和十四年(一九三九年)に雑誌「文芸首都」に載せた『鶏騒動』の第九回芥川賞受賞であった。作家生活の一歩であった。受賞作『鶏騒動』はプロレタリア文学系の、名もない庶民にに対する深い愛情が支配しているユーモアに満ちた小説である。千葉の農村にロシア革命で追放されたロシア人が住み着き、近所の老婆と親しくなる。国境を越えた哀歓が軽妙な筆致で描かれている。当時の選者・滝井孝作の選評に「やや漫画風な筆付きで」あるが「その筆つきに幅と力とがあって、その力量の現れている点で、わざとらしい誇張もそうイヤでなくかえって面白味になっている」と高く評価している。それまでのリアリズム小説にない庶民生活に漂うユーモアや人間味、滑稽感や抱腹絶倒風な壮大なおもしろさが選者たちの注意を引いたようだ。
 戦後は埴谷雄高たちの「近代文学」からもある種の期待が持たれていたが、共産党系の文学者の道を歩み、雑誌「新日本文学」「民主文学」にかかわり、共産党機関紙「赤旗」に連載小説などを精力的に書いていた。しかし、昭和四十五年(一九七〇年)町田市の自宅で自殺。五十九歳であった。