[初刊]
[例詩]
和歌の浦の磯崎こゆる
志ら浪のしらぬむかしを
松陰の真砂にふして
もとむともかひやなからん
玉津島姫
久方の天つみそのに
むれ遊ぶ聖霊の鳩の
錦翼にのらしめたまへ
[解説]
「十二の石塚」は「緒言」「荒野」「古塚」「山村」「旧城」「渓流」の各章、全六九〇行の長詩であるが、詩碑は三角型の自然石に長方形の青銅版をはめ込み、緒言二十二行の冒頭一〇行のみが鋳出されている。文字は詩集の紙面をそのまま写している。銅版の上に「半月詩碑」と横書きに陰刻された題字は徳富蘇峯の書。裏面に山本允「半月先生略伝」が刻まれている。昭和三十年十一月三日建立。 「十二の石塚」全詩は「旧約聖書」の「出埃及び記」「民数紀略」「申命記」を典拠にした創作叙事詩、史詩である。イスラエルのモーセの死後、指導者となったヨシュアが十二の支族を率いてカナンの地を目指し、ヨルダン川を契約の箱とともに渡ろうとすると流れが止まるという神の奇跡を示された。ヨシュアはこれを記念して十二の部族に十二の石塚をギルガルの岡に築かせた。ゲラはベニヤン族を代表してその一つを築く。ゲラは後にモアブのエグロン王と戦って戦死した。ゲラの子エホデは幼い時に石塚を母から見せられ、故事と父の非業の死を語り聞かされ、成人後、奇策を用いてエリコ城のエグロン王を刺殺し、父と虐げられたイスラエル民族の仇を討った。これが「十二の石塚」の梗概である。ゲラが石塚を築いたこと、エグロン王と戦って戦死したこと、エホデが幼時にに石塚を見、母から故事と父について聞かされことなどは典拠はなく半月の創作である。
笹淵友一は「十二の石塚」を「当時としては全く清新な題材を旧約聖書のヘブライ民族の歴史に求めたもので、荘重な古典的風格を備えた作品であり、当時の雑駁な作品群の中にあっては異彩を放つ作であった」と評している。また、太平記や平家物語の影響を創作部分に指摘している。創作部分は特に「『仇討ち』とか『孝心』とかいふ日本古来の道徳思想に裏付けられいる」(本間久雄)と言ってよいであろう。詩碑に採られてた冒頭の十行は確かに「泰西の詩人が長詩冒頭に『ミューズ』の援助を祈願する例に倣」(矢野峰人)ったものであるが、冒頭の四行は「万葉集」巻九の「水江の浦島の子を詠む一首短歌を併せたり」を想起させるものがある。半月自身は「古今集」の長歌形式を新しく生かそうとしたと語ったと言われているが、笹淵は「万葉集」に典拠を持った表現が少なくないと述べている。「十二の石塚」は個人の抒情の世界に閉じ込もり、それも伝統的歌語の枠組に拘束されて形骸化してしまった日本の詩歌の伝統を歴史に基づく想像力と物語性を回復することによって刷新を計るという抒情詩の近代化と、併せて西欧先進国の植民地化にさらされている日本国民の危機意識に訴えようとする意図が結合した作品であるが、「仇討ち」「孝心」というような日本人の伝統的倫理感や感性・心情に適合したものでもあった。しかし、「十二の石塚」は西欧的文化、宗教すなわちキリスト教の未熟な日本的受容の例と見るよりも、内村鑑三にも見られるような西欧と日本という異質な二つの文化的潮流の出合いが生んだ文化の例と見るべきであろう。
[文学散歩]
湯浅半月、すなわち湯浅吉郎は幕末の安政五年(一八五八)二月十六日、上野国(群馬県)碓氷郡安中村に湯浅次郎吉の四男吉郎として生まれた。湯浅家は味噌醤油の醸造を業とし、板倉藩の御用達、帯刀御免の家柄で屋号を有田屋と言い、現在もそのまま旧中山道の道筋で家業を継続している。信越線安中駅からすぐ国道十八号に出て、しばらく軽井沢方向に行くと左手で旧中山道に入るが、それが再び十八号に出る間の途中の右側に店と蔵が街道に面しているのすぐ目に付く。有田屋は兄の次郎が家業を継いだ。次郎は号を雲外と言い群馬県会議長、第一期衆議院議員を勤め、安中教会堂(安中三丁目十九番地一〇)の建設にも従った。
半月は幼い頃から「三字経」を習い、高崎の呉服屋に徒弟奉公したり、さらに細野村(現松井田町)の漢学者岩井白湾の塾で「経書」を習うが満足せず、明治十年、郷土の先輩新島譲が京都に同志社英学校を設立すると直ちに入校した。二十歳であった。在学中に欧人宣教師から洗礼を受けてクリスチャンになった。十八年に普通科と神学科を卒業するに際し、自作の新体詩「十二の石塚」を朗読し、喝采を博した。卒業後直ちにアメリカのオベリン、エール両大学に留学した。その留守中に兄次郎が「十二の石塚」を出版した。
「十二の石塚」の詩碑は生家有田屋のある旧中山道が国道十八号を横断する交差点手前の上野尻という地域の群馬バス車庫の手前を反対側の左に入った安中一丁目七番三十号の新島譲旧宅の敷地内に建っている。新島譲旧宅は近くから移転されたものだがその北側裏手の小高い中央に「新島譲先生之碑」が建ち、詩碑は手前右側にある。
半月は帰国後、同志社の教授、平安教会牧師などを経て京都帝国大学付属図書館に勤めたが、現在全国の図書館で使われている「十進分類法」を作った。「十二の石塚」の業績もそれと共通していると思わせられる。
半月は生前上野尻の湯浅家墓地に自ら碓氷産の自然石で墓を建て、「吾ゆかば天には父のましまして/かしこし神の子としたまはむ」と刻んだ。これは彼の石塚にほかならない。
渡邉 正彦
e-mail: watanabm@sunfield.or.jp