群馬県安中に生まれ育った湯浅半月(吉郎)は味噌醤油醸造の商家・有田屋の四男に生まれた。長兄は湯浅治郎で、新島襄の片腕になって活躍し、全国に先駆けて群馬県議会に廃娼決議をさせたことでも有名であった。またその夫人は徳富蘇峰・蘆花の姉初子である。事程左様に新島襄を中心に徳富兄弟と湯浅兄弟との関係は、黎明期の日本文化の本質を見通す上での、無視することのできないさまざまな課題を提示してくれる。わけても日本の遅れた詩の出発を考える時、湯浅半月の壮大な叙事詩『十二の石塚』を避けて通るわけにはいくまい。そこで本論では『十二の石塚』の成立の背景、安中での半月の人間関係、同志社での青年時代、また宗教と文学の関係、それらを視野に入れながら、テクストに即し、原典である旧約聖書と比較しつつ『十二の石塚』の持つ文学的意義、さらにそれが日本の近代文学成立期にどのような意味を持っていたのかを考究する予定である。
一九一四年(大正三年)十二月に刊行された徳富蘆花の自伝的小説『黒い眼と茶色の目』に安中市の隣町・松井田出身の詩人、磯貝雲峯のことがたくさん出てくる。徳富蘆花が明治元年(一八六八年)生まれで、磯貝雲峯は慶応元年(一九六五年)だから、この二人は二歳違いということになる。さらに湯浅半月は安政五年(一八五八年)生まれで、蘆花より十歳年長になる。また半月の兄治郎は嘉永三年(一八五〇年)。ちなみに蘆花の兄蘇峰は文久三年(一八六三年)だから、半月より五歳下になる。このように見ていくと湯浅兄弟や磯貝雲峯等の上州勢と徳富兄弟等の熊本勢は京都を中心にして別ち難く結び付いていることが判る。ところで話を戻すと『黒い眼と茶色の目』には蘆花と磯貝雲峯との同志社での同級生づきあい、特に寄宿舎での二人の交友関係の顛末が詳細に描かれている。その中で徳富蘆花は本名の健二郎を(得能敬二)、雲峯磯貝由太郎は(片貝芳太郎)になっている。次はその中からの任意な部分引用である。
《・・・・敬二は旧年中同級生の片貝芳太郎君と懇意になつて、年の明暮は一寮二階三畳の自室に居るよりも、階下の片貝君の部屋に入り浸ることが多かつた。片貝君は上州の人で、学費の為に門番をして居た。学費が乏しい人々の為に、時計の鐘鳴らし、教場の掃除、門番等種々の仕事を与ふる仕組が協志社(注・同志社)にあつた。・・・(略)・・・片貝君は、敬二と同年で、身長は漸う敬二の肩にとゞいた。眉の薄い、眼の細い、おとなしい人で、下襟に小楊枝をさし、細かい歯の間からやさしい声を出した。敬二は何時となく柔順な女房の感じで片貝君に対した。片貝君も「得能は目を細くして笑う時はそりや可愛いぜ」と人にも語つた。二人は昼は共に行火を擁し、夜は多く同衾した。膝を立てて寝る癖が敬二にあるので裾から風が入つて嫌だの、夜中にドット膝を倒すのでびつくりするのと苦情を云ひ云ひ、日一日と敬二に親しむで、接吻を交わしたりした。片貝君は純情な青年であつた。敬二は何時となく此心の温かい人に寿代さんの話を寝物語にし出した。》
磯貝雲峯を「心の温かい人」としているのであるから、蘆花はこの群馬出身の、半月の後輩に当たる青年に強い友情を感じていたのであろう。そのためか、この小説の主人公の友人の中では「片貝君」の記述が最も多い。なおちなみに引用中の「寿代さん」はこの失恋小説のヒロインで、同志社創立にかかわった山本覚馬の次女で、新島襄の姪・山本久栄がモデルである。主人公は彼女への悶々たる感情を何時も片貝君に打ち明けていた。また、半月の和歌の師でもある池袋清風を主人公に紹介したのも、この片貝君ということになっている。次はその部分である。
《・・・敬二はまた片貝、片山、都築の諸君と和歌をはじめた。薩摩の八田知紀の門人で影樹の流れを汲む井伏秋風と云ふ人が協志社の近くに居た。夏も綿入れの羽織を着て、道を歩くに小さな提火鉢を携へて、四五町毎に股火して徃くと云ふ寒がりであつた。案山子の舎と号して、詠むよりは教ゆるが上手で、其鼓吹の下に和歌の流行は一時協志社を風靡し、弟子の中から少なからぬ師に勝る秀才を出した。(略)・・・女学校に教鞭をとつて居た井伏さんは相変らず着ぶくれた体を協志社近くの下宿の二階の机にもたせて、くるくるとした呆けた様な眼を古い歌集にさらして居た。敬二は並々ならぬ意気込で課題を詠むだが、採点の結果は片貝君が首席であつた。此は他の驚愕で、敬二の失望であつた。敬二は直ぐ不熱心になつて、皆の詠草をテーブルの上に置き忘れて人に見られ、片山君からLooseだと執念く攻撃され、あぶなく殴り合ひをはじめた。》
右の「井伏秋風」が池袋清風で、「影樹」が香川景樹である。清風の歌は桂園派を継いだ旧派であったが、湯浅半月は同志社時代、大西祝と共にその歌風を身につけて、卒業している。半月が同志社英学校に入学したのは一九七七年(明治十年)九月で、その普通科を卒業したのが、明治十五年で、続いて同志社の神学科に進んでいる。清風が同志社に入学したのが明治十三年である。これに一級上の徳富蘇峰と大西祝も加わって文学愛好グループが生まれる。このグループのリーダーは三十四歳で同志社の学生になった歌人の清風であったようだ。半月の最初の作品『十二の石塚』などにも桂園派の優雅、流麗な内的リズムが充分に生かされていることなどを考えると、清風からの影響は甚大であったものと推定される。そして、そのような影響を最も多く受けている最中に半月は磯貝雲峯に故郷の地で会っている。半月は明治十五年に新島襄の四度目の安中帰郷に同行した。
この年、半月二十四歳、神学科に入学し、宣教師ラーネットより洗礼を受けるなどし、もっとも信仰への若々しい情熱が内面に燃え上がっていた。そうした時期の夏休みを利用しての帰郷であった。新島襄は安中に立ち寄り、夫人の故郷の会津方面へ伝導に行く途中であったのだが、それに付き従って徳富蘇峰、横井時雄、半月の総勢四人は京都より殆ど徒歩で中仙道を下って安中にたどり着いた。そして半月はその夏中、故郷に残り、原市教会を中心に伝道活動を続ける。恐らくその際に磯貝由太郎少年に会って、同志社進学を推奨したものと思われる。磯貝は安中の隣の碓氷郡九十九村(現・松井田町)の内田仁八郎の三男に生まれ、後に母方の生家を継いで磯貝姓になる。彼はその時、十六歳、その三年後、明治十八年、半月が米国留学の途に就く年に同志社に入り、その前後に半月より清風を紹介されたのであろう。そしてさらに磯貝は偶然にも蘆花の親友になり、今度は蘆花に清風を紹介し、その上『黒い眼と茶色の目』の「片貝」のモデルになるのだからおもしろい。ともかく文学的には湯浅半月、池袋清風、徳富蘆花、磯貝雲峯の繋がりは短歌と同志社、さらに加えて地縁と血縁による幾重もの強い紐帯で結ばれ合っていることになる。わけても半月と雲峰はその表現形式が詩と短歌であるだけに清風とは文学的繋がりが強い。例えば次ぎのような作品とその傾向に留意して貰いたい。
1.ゆたや野のあさじが露に久かたの月の光をやどりけるかな。
(「マリヤ、クリストをはらむ」)
2.水枝さす楓のわか葉
影みえて池のほとりの
すゞしさに驢馬引とゞめ
休ふは母にはあらぬ
その子かも十二のいしを
ゆびさして誰のしるしぞ
こは何ぞその故あらば
しらまほししらしめたまへと
問ひし子の顔みてえみつ
たらちねの母のうれしさ
岩が根の草のみどりに
いすわりてうちかたらふは
久方の天地つくる
神の友信仰の父
ヱブラハムイサクヤコブの
・・・・・・・
3.花の梢にふく風の
ひとりふくとはみゆれども、
みえざる御手によらずして、
ふく嵐こそなかりけれ。
4.まつかぜに、 音冴えわたる
夕まぐれ、 ねぐらにとまる
鳥がねも、 いまはきこえず
なりにけり、 窓のすきもる
ともしびの、 光りもさむし
木の間の山寺、
・・・・・・
5.のどけき風に きたやまの、
去年のみゆきや とけぬらん、
加茂の川なみ たちかへり、
みやこはるかに なりにけり。
千草の花は をちこちに、
いろ香たへにも さき匂ひ、
やなぎをたてに あやにしき、
をりいでし様の おもしろさ。
右の1.から5.までの作品は同一人物の手になったかの感があるほどに、その声調や雰囲気や語法が似通っている。しかし1.は池袋清風の和歌であり、2.3.は半月の作品で2.は『十二の石塚』の「荒野」の冒頭部、3.は『半月集』(明三五)中の「天然」の第一連である。4.5.は雲峯作品で4.は物語詩『知盛卿』(明二四)第一回「山寺」の冒頭、5.はその後「中京文学」に載せた「亡友を憶ふ」の第一連である。その中でも特に半月作品と雲峯作品は詩形式を採っているのだが、その発想法はいずれも和歌的な表現が目立ち、桂園派特有のたおやかな自然への一体感から生じる抒情性という共通性が窺える。雲峯は明治三十年に三十二歳で夭折し、墓は安中市郷原にある。また生家の側に昭和十六年、徳富蘇峰の撰になる「雲峯之碑」が建った。その徳富蘇峰の碑文中にも、「当時同志社ニハ桂園派ノ歌人池袋清風君在リテ清新真醇ノ歌風ヲ鼓吹ス君実ニ其ノ社中ノ重ナル一人トシテ才鋒尤モ露ハル而シテ短歌ヨリシテ更ニ叙情詩史詩ノ新体長篇ニ進ム」云々とあり、清風の影響のほどが偲ばれる。そしてこれも余談だが、もう一人の清風の歌の弟子筋にあたる独学の国文学者、正宗敦夫の歌も同じ基調をもっているようだ。兄正宗白鳥は晩年の作品『今年の秋』で弟敦夫の死の場面を描いているが、その中に敦夫の次のような辞世の歌が載っている。
洗礼の水まろらかにかほにおつ
かしらにそゝぐたうとき露かも
これなど見ると他の場合も共通に言えることだが、清風を通しての桂園派のみやびな、どこかけだるくスピード感の欠如したデカタンの匂いも多少する語法にキリスト教的清浄主義の情感が混交されていて、独特な詩空間を形成している。言うなら「清風ダンデイズム」であろう。そして、そうしたものは『十二の石塚』にも横溢している。そのあたりを本間久雄は『明治文学史・下巻』で「詩の風格も亦、史詩としての味ひに適はしく、優雅の中に一種の荘重さがあつて『新体詩抄』のそれの如き卑俗なものでない。作者は当時、池袋清風に就いて桂園派から遡つて『古今集』に至る迄の和歌を学び、それに精通してゐたので、作者の直話に依ると、この『十二の石塚』の如きも『古今集』の長歌の形式を生かさうとしたものであつた」と評している。また「日本近代文学大系」(角川版)の『近代詩集1』で笹淵友一も同様な指摘をしている。即ち「彼の詩の領域は叙事詩であり、キリスト教の信仰に基づく敬虔森厳な想念と、端正荘重な古典的措辞とがこの詩境を支えている。前者はキリスト者・旧約学者としての経歴と結びついており、後者の素地をつくったのは主として同志社の学友で、桂園派の歌人であった池袋清風を師とする和歌の修行ではなかったかと思われる」と。
さらに日夏耿之介はその著『明治大正詩史』で、「柔かな古雅な言葉をわり合に難なく使用した点」が特色であるとしているが、「別に詩才の卓越も形式の斬新もない」として、次のように続けている。「用語はすべて在来の枕辞も王朝時代の雅語をも厭わず使つてあるだけ清新の感は些かもないが、『岩ばしるヨルダン川』といひ、『朝日さすエリコの城』といひ、『ヘルモンの峯の雪かも』といひ、『エルサレム古りぬる城の』といひ一種の新味ある古風の調和を見せてゐる」として、この叙事詩の古めかしい語法を否定的に評している。しかし、日夏が指摘している古めかしさ、あるいは「清新の感は些かもない」というのは、いずれも桂園派的世界のたおやかな美感についてまわるもので、いわゆる「清風ダンデイズム」の一つの美意識の表裏であるから、その部分だけをあげつらっても意味がない話である。しかし、半月も雲峰も叙事詩、あるいは物語詩に成功して、なぜ抒情詩ではさほどの成果が収められなかったのかという課題は残ろう。それは旧派の表現と発想が人間の内面やエゴを剔抉するに適さず、そのような形式美の語法では新しい人間的感性に迫れなかったと言う事情があろう。だが一方、島崎藤村の『若菜集』を例外とすれば、土井晩翠も落合直文もことごとくがエピックかバラッドであることを思えば、半月たちのみを責めるわけにも行かない、日本語による詩の黎明期特有の難問があった。
(二)『旧約聖書』と『十二の石塚』
周知の事柄に属するが、日本語を使って意識的自覚的に詩が作られ、それを本邦最初のアンソロジイ詩集『新体詩抄』にまとめ刊行したのが一八八二年(明治十五年)である。ところで半月の『十二の石塚』はそれから僅か三年後に作られることになる。それが発表されたのは一八八五年(明治十八年)六月の同志社英学校神学科の卒業式の席上、本人の朗読によってである。当時の同志社は卒業式の当日、卒業生の研究や作品を発表させていた。今日の卒業論文、あるいは卒業制作だと思えばよい。ただそれが六百八十八行からなる一大長編叙事詩であったので、参会者は一応に驚き、かつ感銘したらしい。そして、その年の十月に半月の長兄・湯浅治郎がそれを詩集に纏め、植村正久に格調高い「序」を頼み、出版した。その新しい詩集を半月が手にしたのはアメリカ、オハイオ州のオーベリン大学神学科へ留学するため、乗り込んでいた横浜港船中であった。その奥付には「明治十八年十月十日、群馬県碓氷郡安中駅五三〇番地、湯浅吉郎発行」とある。体裁は四六判、紙装。「序」が八頁、本文五十八頁で、定価が六銭であった。発行所番地は有田屋・湯浅本家(生家)になっていた。
この『十二の石塚』の題名は旧約聖書の「約書亜(ヨシユア)記」から、また題材とストーリイの大部分は「士師記」から採っている。半月は同志社の神学科時代に洗礼を施して貰った宣教師で、神学科の先生・ラーネット博士から特別にギリシア語の個人指導を受け、旧約なども読めるようになっていた。後に六年間のアメリカ留学中、オーベリン大学ではヘブライ語を、エール大学ではアラブ語やアッシリア語などの旧約を中心にした聖書学関係の語学をマスターしたことなどを考えると、抜群の語学的才能と異常なほどの旧約聖書世界への好奇心、この二つが並みはずれていたことがわかる。と言うのはその後、半月にはさまざまな思想的変転があるのだが、この部分への関心だけは終生もち続けていたようだ。例えば晩年にあたる時期でのヘブライ語原典による『雅歌』、『箴言』、『詩篇』、『ヨブ記』、『イザヤ書』、『第二イザヤ』等の金字塔のような訳業一つ見ても、その地下茎が遠い過去の彼方の半月の青春の記念碑『十二の石塚』まで延び、そこに全てが胚胎し、そこから全ては発していると言える。その意味では『十二の石塚』は、それ自体が半月精神史の構造原型であり、出発点であった。
ところで『十二の石塚』は五七調を基調にした物語詩である。全体は「一回」の「緒言」と「荒野」、「二回 古塚」、「三回 山村」、「四回 都城」、「五回 渓流」の五部構成になっている。それらの前に付されている植村正久の「序」は今風に言えば東西の比較詩学史の觀があって本文の世界と良く照応している。植村はそこで日本と中国、そして西洋の詩の本質を比較して、「日本ノ詠歌ハ心ニ本キ愛情ヲ種トシタモノニハアレド其心モ愛モ未ダ高尚ノ位置ニ至ラザルモノト云ベシ」。それに対し中国の文学は「智識道徳ハ言語ノ気骨文学ノ神髄」「勁健正大ナル風」が主流であったが、仮名文字発明以来、「シナ文学」への傾倒が少なくなり、日本は「浮華艶麗浅弱」を尊しとして今日に至っている。しかし、明治の現代は「気骨神髄共ニ強勁ナル」西洋文学が読まれるようになり、新しい可能性が開けて来た。「泰西諸国ニ於テ試作ノ変遷多クハ傑然タル一個人ノ変体ヨリ生ズ吾邦詩学上今日ノ急要ハ一家新創ノ詩人ノ現ハレ出ルコトナルベシ」として、『十二の石塚』は「日本ニハ未ダ其類ヲ見ザル史詩ナリ其体制新創ナルノミナラズ道徳ノ感覚ヲ含ミ愛国正義ノ気ヲ吹シ」、大いに期待が持てるというわけである。しかも半月が米国に留学するのであるから、彼地で「西詩ノ蘊奥ヲ探リ」、将来は日本の詩歌を大変革し、大詩人になって貰いたいと熱望している。しかし、これは植村正久一人の独断的誇張ではなかった。緒についたばかりの日本語による新しい詩への渇望が、多くの人々の熱い視線となって『十二の石塚』に注がれていた証左の一つであった。
そこで、何故これほどの期待が一部の人々の間に生じたのか、それを考える手掛かりとしてこの辺で、少し内容に立ち入って見よう。最初の「一回」の「緒言」は「和歌の浦の磯崎こゆるしら浪」の日本から時空を越えて、一気に中近東の「ユダヤの国原」「ギルガルの岡」の十二の石塚の地へと語り手は飛翔する。そして旧約聖書的世界が読者の眼前に緩やかに展開を始める。それは作品全体の雰囲気を伝えるプロローグでもある。「荒野」もそのようなプロローグの延長であるが、母と子が出てきて、十二の石塚の問答を交わす。それからイスラエルの民がエホバの神の掟を護り、幸せに暮らしている情景が描かれている。「二回・古塚」の前半は旧約の『ヨシユア記』から取材しているが、先ほどと同じく母が子に石塚にまつわる昔の歴史を語る形式を採っている。イスラエルの指導者ヨシユアに率いられた軍勢がカナンの国に進撃しようとするが、滝のような大きなヨルダン河がある。モーゼの渡海の例にならい、ヨシユアが進むと波は右左に分かれ、水底に一筋の道ができる。その結果イスラエル軍は大勝利し、広大な沃野を手に入れる。この勝利のもとになった神の恩寵に感謝してヨシユアはイスラエルの十二部族に命じ、渡河作戦成功の記念に河端の岡に一つづつ河石を建てさせる。それが詩題ともなった十二個の遺石なのである。「ところが旧約によれば、指導者ヨシユア亡き後、イスラエルの民はエホバの掟に背き、衰亡し四散する。エホバは背いた民を懲らしめるため異教徒のモアブの王・エグロンにイスラエルを撃たせる。『士師記』では(イスラエルの子孫復ヱホバの眼のまへに悪をおこなふによりてヱホバ、モアブの王エグロンをつよくなしてイスラエルに敵せし給へり)とあり、この後十八年もイスラエルはエグロン王の奴隷のようになる」(論者注・しかし、半月詩では右のカッコ部分は削除されて、突然のエグロン王の侵略と戦争になる)。そしてイスラエルは敗れる。子供への母の話はなおも続く。「されば子よエグロンこそは/かなしくも父と国との/仇なれまた此塚は/ありし世の神のめぐみの/しるしなり忘れなゆめと」とあり、読者はここでこの母子の男親ゲラが勇士として戦死したことを知らされる。「かへりゆくこはベニヤミンの/族なるゲラのひとり子/エホデにて尚こゝのつの/ころかとよ母にひかれ/梓弓春の遊びに/いでしなり」と描かれている。
「三回・山村」はエグロン王に撃たれた父ベニヤミンのゲラの遺児エホデが成人し、征服されて苦しんでいる同胞を救うため、何とかして父の仇のエグロンを殺害しようとして苦心惨憺しているありさまが描かれている。彼は父の形見のもろ刃の鋭利な剣をいつも肌身はなさず持ち、ある日、母に心配をかけぬためこっそりエグロン王の居城のあるエリコに向かう。この回からは語りの視点は最前の母の回想とは違って、叙事詩的な客観性を帯びて来る。そして「四回・旧城」はクライマックスにあたる。青年エホデは椰子の城エリコの町に到着し、さまざまな計略を用いてエグロン王に近づき、安心させたうえで見事に仇討ちを成功させる。その場面の筆致は次の通りである。「涼しさにエグロン王は/北窓の隙戸おし開き/藤牀に猶うち臥して/いませしがエホバの神の/御命なりといふ一声に/おどろきて身をかへす間に/上衣持ておほひしみぎの/腰よりぞあはや左手に/寳剣をばぬくよとみしが/はや王の胸板ふかく/刺通しきつさきそびらに/あまりける菅のまくらも/真白なるかやのむしろも/くれなゐの血しほに染て/凄じくげに肥へふとる/白牛の屠るが如し」。そして「五回・渓流」はエピローグである。再びイスラエルの民に平和が訪れ、エホデは人々に送られ、母の待つ故郷に帰って行く。その途中、昔母から話を聞いた場所、ギルガルの十二の石塚のほとりを過ぎる。朝日がその記念の石を染めている。そのとき鳩が十二羽それぞれの石から大空に飛び立って行った。「あわれ我その鳩のごと/翼あらばユダヤの国の/いにしへの神の恩恵を/つげんためいざかえらなん/うらやすの国に」で終わっている。ここで再び語り手は「うらやすの国」日本へ、神の恩寵を伝えるために帰ることになる。見事な起承転結の円環形式になっている。
しかもそれらは山宮允に「英国古代のカドモンの宗教詩」(『日本現代詩大系』)を想起させるほどに、形式が端正で見事である。その上、旧約の原典にない仇討ちというストーリイが加えられている、それがこの叙事詩の核になっている点は半月の独創であろう。『士師記』ではイスラエル民族が神に背き、神との契約を蔑ろにしたので、神は彼らを懲らしめるために異教徒の王エグロンを使って彼らを苦しめる。その苦境から民族を救うために、もう一度神への契約の回復を果たす指導者としてエホデが登場し、エグロンを撃つという話である。それを半月は換骨奪胎して、エグロンの暴虐によって殺された父や同胞の仇を討つという話に巧妙にすり替えて、その部分を日本人向けに変えたのである。だから母が父ゲラの仇を討てと幼いエホデに綿々と訴える場面などは、楠公父子のエピソードなどを彷彿させるほどで、それがいたく日本人のエトスを刺激して感動を生んでいるのであろう。それでは実際はどうなのか。それについて旧約のその部分を検証して見よう。先ず『ヨシユア記』だが、その「第四章」に次のような記述がある。
《民ことごとくヨルダンを渡りつくしたる時ヱホバ、ヨシユアに語りて言たまはく、汝ら民の中より支派ごとに一人づつ合せて十二人を挙げ、これにこれに命じて言へ汝らヨルダンの中祭司等の足を踏とめしその処より石十二を取りあげてこれを負ひわたり此夜汝らが宿る宿場にすゑよと、ヨシユアすなわちイスラエルの人々の中より支派ごとにかねて一人づつを取りて備へおきぬその十二人の者を召しよせ、而してヨシユアこれに言けるは汝らの神のヱホバの契約の櫃の前に当りて汝らヨルダンの中に進み入りイスラエルの人々の支派の数にしたがひて各々石ひとつを取りあげて肩に負きたれ、是は汝らの中に徴となるべし後の日にいたりて汝らの子ら是等の石はなんのこゝろなりやと問て言ば、之にいへ往昔ヨルダンの水ヱホバの契約の櫃の前にて裁断りたることを表すなり即ちそのヨルダンをわたれるときにヨルダンの水きれ止まれりこの故にこれらの石を永くイスラエルの人々の記念となすべしと、イスラエルの人々ヨシユアの命ぜしごとく然なしヱホバのヨシユアに告げたまひし如くイスラエルの人々支派の数にしたがひてヨルダンの中より石十二を取り上げ之を負わたりてその宿る処にいたり之を其処にすゑたり・・・(中略)・・・正月の十日に民ヨルダンを出来りヱリコの東の境界なるギルガルに営を張れり、時にヨシユアそのヨルダンより取きたらせし十二の石をギルガルにたて、イスラエルの人々に語りて言ふ後の日にいたりて汝らの子らその父に問て是らの石は何の意なりやと言はば、その子らに告しらせて言へ往昔イスラエルこのヨルダンを陸地となしてわたりすぎしことあり、即ち汝らの神ヱホバ、ヨルダンの水を汝らの前に乾涸し汝らをわたらせたまへり其事は汝らの神ヱホバの我らの前に紅海を乾涸して我らをわたらせたひし状況の如くなりき・・・》
右の部分は『十二の石塚』冒頭の「荒野」の母と幼きエホデの問答の場面から、その石の由来に至るストーリイの源泉になっている。作者半月はこれからヒントを得て、イスラエル十二部族が記念の石を一つづつ置くという原典の記述からイメージして、その選ばれた一人に後の巻『士師記』にあるベニヤミンのゲラを結び付けたのであろう。もともと原典ではゲラはエホデの父とあるだけで、それ以上の説明はなにもないのである。次はその場面からクライマックスにいたる部分を『士師記』で見てみる。
《イスラエルの子孫十八年のあひだモアブの王エグロンにつかへたりしが、イスラエルの子孫ヱホバに呼はりけるときヱホバかれらの為に一人の救ひ手を起したまふすなはちベニヤミン人ゲラの子なる左利きのエホデ是なりイスラエルの子孫かれを以てモアブの王エグロンに贈物せり、エホデ長さ一キユビトなる両刃の劍を作らせこれを衣のしたに右の股のあたりにおび、贈物をもたらしてモアブの王エグロンのもとに詣るエグロン甚だ肥たる人なりき、さて贈物を献ぐることをはりしかば彼贈物をになひ来りしものをかへし去らしめ、自らギルガルの傍の石像の在る所より引き回していひけるは王よ我爾に告ぐべき密事ありと王人払を命じたればその傍にたつものみな出で去りぬ、エホデすなはち王のところへ入来れり時に王はひとり上なる涼殿に座し居たりしがエホデ我神の命によりて爾に伝ふべきことありといひければ王すなはち座より起に、エホデ左の手を出し右の股より劍を取りてその腹を刺せり、柄もまた刃とともに入りたりしが脂肉刃を塞ぎて之を腹より抜き出すあたはずその鋒鋩うしろに出づ、エホデすなはち廊をとほりてその後に楼の戸を閉てこれを鎖せり、その出しりち王の僕来りて楼を鎖したるを見いひけるは王かならず涼殿の間に足をおほひ居るならんと、僕ども耻るまで俟居たれど王楼の戸をひらかざれば鑰をとりて之を開き見るにその君は地に仆れて死にをる、エホデは彼等のためらふ間に逃れて石像の在るところを過りセイラテに遁げゆけり、かれ既に至りエフライムの山に叭を吹きければイスラエルの子孫これとともに山より下るエホデこれを導けり、人衆にいひけるは我に続いて来れヱホバ汝等の敵モアブ人を汝等の手にわたし給ふなりこゝにおいて彼らエホデにしたがひて下りモアブにおもむくところのヨルダンの津を取りて一人も渡ることをゆるさゞりき、そのとき彼らモアブ人およそ一万人を殺せり是皆肥太たる勇士なりそのうち一人も脱れたるものなし、モアブはその日イスラエルの手に服せり而して国は八十年の間太平なりき・・・・》
右は旧約聖書の「士師記」第三章の十四から三十までである。この部分が『十二の石塚』の中心部で「四回 旧城」と「五回 渓流」にあたる。旧約では両刃の剣はエホデが自分で作らせたとなっているが、半月作品ではエグロン王への恨みを呑んで戦死した亡き父の形見ということになっている。これは「ヨシユア記」の十二の石塚の由来のエピソードと結び付けるための、作者苦心の創作部分であろう。それを除けば「士師記」の記述をほぼ正確に流麗な詩文で以て『十二の石塚』はなぞっている。しかも原典での叙述の分量は僅かである。それを数倍に拡大して、描いて見せた力量はそれだけでも大変な成果であり、また、そこにこそ、この物語詩の最大最良な価値があろう。
(三)半月作品解釈と日本近代の問題点
ところで湯浅半月の『十二の石塚』が黎明期の日本の近代詩の出発点での記念碑的作品であり、作者も日本語による詩の創始者の一人であるという高い評価には変わりがないものの、さらに細かく見ると、この詩についての評価は大まかに言えば、二つの価値観に分かれている。それは原典の旧約にない仇討ちのストーリイを導入した、いわば半月独創の部分をめぐっての評価の違いであろう。しかもこの「仇討ち」はこの作品の構成にかかわる中核に位置し、感動構造から見ても伝統的美意識や日本的情感に裏打ちされていて、これを抜き去るわけにはいかない仕組みになっている。それをプラスの方向で評価している代表例としては、前述の本間久雄の『明治文学史』の次のような記述などがあろう。「作中に盛られた詩想の特色として挙ぐべきことは、それが、『仇討』とか『孝心』とかいふ日本古来の道徳思想に裏づけられてゐること、即ち、題材こそ旧約聖書の挿話であるが、それを裏づけるに、どこ迄も日本的な道徳感情を以てしたことである。エホデがエグロン王を欺いたことは、非難すべきだと説く西洋の聖書学者もないことはない。しかし、『十二の石塚』においては、これをむしろ『仇討』の主人公として賞賛してゐる。つまり此作は基督教的題材を、日本的思想感情で解釈したものと云つてよい」。しかも文化の伝播とはそうしたものだと言った意味を次のようにも述べている、「純粋な旧約聖書の史詩として見るものには不満ではあるが、しかし、如何なる題材も、日本人が取扱ふ以上それは日本化されるのが当然であり、その意味から云へば、そこに、この作者の独創があり、又、凡ての方面において、新日本建設の気運の濃厚であつた明治黎明期そのものの雰囲気が、おのづからそこに漂つてゐるものとして此作を見るべきである」と。
このような肯定的見方に対し、否、そうではあるまい、そもそも「仇討ちストーリイ」の導入それ自体が封建的道徳観、旧来の感性に連携した感動形態である。そして、それに大きく依存して成立していることは、取りも直さずこの作品の限界であり、一つの欠陥であろうと言う主張もある。そのような例として笹淵友一が挙げられる。彼は先程引用した「解説」(角川版・日本近代文学大系「近代詩集1」)で植村正久「序」の「道徳ノ感覚ヲ含ミ愛国正義ノ気・・・」に触れて、次のように言う。「その『道徳ノ感覚』はキリスト教倫理を意味するばかりでなく『仇討』という武士道精神にもつながりがある。更にその構想と措辞には『太平記』『平家物語』などの戦記文学との関連が考えられる。これは半月の思想が近代人として封建的であり、またその信仰は宇宙の主宰者であり、権威である神への絶対服従という正統派信仰の立場にあったことを示している」として、その近代性の限界を指摘している。そしてさらに、そこには「敬虔な宗教的感情が認められるが、その感情はあくまでも神中心であって、人間の側の内面的問題には意識が及んでいない。この詩が表現の純粋さにおいて当時としては抜群の域に達しておりながら近代詩史から孤立しているのもそのためである」と断定する。確かにそう言われてみると、例えば藤村の『若菜集』中の詩「逃げ水」が植村正久訳『新撰讃美歌』の「ゆうぐれしづかに いのりせんとて/世のわづらひより しばしのがる」の本歌取りであるにもかかわらず、亀井勝一郎の『島崎藤村論』では、だからこそ神中心から人間中心の認識転換がそこに見られ、それが「藤村におけるルネッサンス」であると高く評価されている。そのような事例などに照らして見れば、半月の文学的立場やその限界が自ずから見えて来よう。つまりは『十二の石塚』が詩としては完成された表現をもって出現したのに、その後の作者のその方面での華々しい活躍が見られなかったのは、その問題を個人的に限定しないで観察すれば、その「孤立」は笹淵の指摘の通りかも知れない。
しかしまた、笹淵はそこに半月の「正統派信仰」や「敬虔な宗教的感情」を認めようとしているが、それとは別の、むしろ正反対な見方をしている例として佐藤泰正の批評(近代日本キリスト教文学全集・詩集「解説」)を紹介しておこう。彼は旧約の一挿話を「忠臣孝子の仇討譚」に作り替えた『十二の石塚』のありようを、「ひとり半月のみならぬ、また同時代におけるキリスト教受容をめぐる課題を孕むもの」として捉え、日本近代のキリスト教の異質性、あるいは異端化のメカニズムを探ろうとする。そして「神のうちに孝道存す」「東洋忠孝の教、基督に至りて其の深奥なる基礎を得たり」等の植村正久の言に触れながら、佐藤は次のように述べている。「この植村の思想はまた、半月のそれと無縁ではあるまい。しかしまた『国の敵父の仇も/神のため』(略)などの詩句を、単にキリスト教思想による止揚、超剋などと安易に断ずることはできまい。むしろここに欠落するものは、神との契約への忠誠という『旧約』をつらぬく原理的思想であり、肉感である。ともあれ「旧約」の物語を忠臣孝子の義挙という、わが国の伝統的エトスの只中にくるみ込みつつ語ってゆくこの詩篇の独創は、逆に原話の孕むイスラエル民族の神の契約への忠誠という、民族的エトス欠落の代償として、おのずからにしいられた内的必然と見ることができる。これはひとり半月のみの問題ではなく、以後の近代詩とキリスト教をめぐる課題に深くかかわるところでもある」と。言うなら佐藤は日本近代のテーゼ「和魂洋才」の宗教版の極めて困難な矛盾とその限界性を『十二の石塚』を例にすることで、それ等の時代制約を見とどけ、特にこの作品が素晴らしいだけに、死児の齢を数えるがごとく、その不毛さの根源を撃っているのである。そう、確かに半月のみの問題ではなかったろう。
ところで半月は後の日、「新体詩『十二の石塚』創作動機」(一九二六年)を『愛書趣味』に六回に分けて載せている。その中でこの作品成立に影響を与えた人物を三人ほど挙げている。その中の一人は日本の古典や和歌の世界に彼を導き入れた、前出の池袋清風である。半月は清風をこの時も「尋常一様の歌読みではなかつた」と紹介しているから、その影響ぶりが窺えよう。そして清風について『金槐和歌集』『山家集』『古今和歌集』『万葉集』などを学び、また清風の紹介で宮内省御歌所の高崎正風所長たちに作歌指導を受けたと述べている。通信添削指導であったようだ。「しかしながらあまり深く和歌に浸入し過ぎて、『十二の石塚』を作るにどうしても五七調、長歌風から脱し得なかつた」という自戒の弁も見える。もう一人は学友の大西祝である。二人とも和文の美しさにひかれて、江戸文学に熱中し、果ては近松・竹田の『浄瑠璃本』、『八文字屋本』、『都々逸集』から端唄、地唄の本までも読み漁る生活を一時続けていたようだ。そして、三人目が同志社の少壮教授で、二十四歳で早世した山崎為徳である。彼はミルトンの『失楽園』全詩を暗唱していて、何時も散歩の折りに朗吟していたらしい。だから「山崎先生は常に詩歌至上主義を絶叫し、『詩から神に往け、神から詩は来る、神のない詩は詩ではなく、詩のない神は神ではない。真の神によらなければ真の詩は作れない』」と半月たちに言い聞かせていたともある。「また山崎先生は唐詩や和歌の如く、窮屈な法則に拘束され、少数の文字に制限されてゐては、とても英語のやうに連続する思想感情を充分に、表白することはできない。今この作品を見よと云て長篇の叙事詩を見せられた。ハッと思たが、よく見るとさすがの先生も時流を脱する事が出来ず、唐詩の古詩体で、漢字ばかりであつた。しかし僕はその時これを見本に仮名で作れば良いとおもつた。これが『十二の石塚』を創作した、最初の動機であつた」とも書いている。右のいずれからも往時の明治初期の時代的雰囲気、あるいは半月青年の文学的息吹がそくそくと伝わって来る。
そして、このようなものを見ると『十二の石塚』には半月の個性を通して聖書的世界と和文学の伝統と清風を媒体にした和歌的抒情の韻律が渾然一体となっているさまが良く判る。その辺りの事情を指して、笹淵友一は太平記や平家物語の影に言及したのであろう。しかし、結果としては和洋折衷、和魂洋才ということになり、さまざまな評家が後になって指摘するように、それが良くも悪くも日本の近代の逃れ難い宿命でもあった。そして最も早い時期、それに捉えられた一人が湯浅半月であった。
しかし、半月個人ということでなしに、その生涯の全容をまでも含め、文学を中心にして日本近代を観察すると、そのような和洋折衷の特質から生じる悲劇が垣間見えて来る。佐藤泰正の指摘しているような「神との契約の欠落」という、キリスト教にとって欠かすことの出来ない部分を日本的道徳の文脈の中で読み替え、その読み替え作業の結果として日本の読者には親近性イメージを与える功の側面と、それであるがゆえの似て非なるものに変質してしまう罪の側面、その功罪から逃れられない近代のアポリア、確かに西洋の宗教が基幹になっている文化を受容しようとした文学者たちが等しく陥った、それらは避け難い陥穽でもあった。そして、その地帯から抜け出せずに北村透谷の場合のように傷つき、倒れるか、島崎藤村や正宗白鳥のように棄教するか、国木田独歩のように一種の汎神論へと逸脱せざるをえなかったのであろう。あるいは徳富蘇峰のようなナショナリストへの道、また蘆花の生命礼賛主義への偏向、それらの現象を今日から振り返ると、そこにキリスト教とは別なものへと流れて行く、何か日本的と言わざるを得ないものの力の働きを感ずるのである。では半月の場合はどうか? 例えば晩年、戦時中、河井酔茗のもとを訪れた半月が「鬼畜米英」などと口走っていたという証言など、酔茗の子息から耳にしたことがある。あるいは「聖戦所感」などという詩も作っている。これは時代に対する擬態であると半田喜作はその著『湯浅半月』で述べているが、そうした側面は考えられるにしても昔から親しかった蘇峰、蘆花の宗教的変質を考えるとき、果たして全部そうであったのか、にわかに承服出来難いものがある。
ところで戦争中、晩年の半月は一方では、時代に対し心の平衡を取るためであるかのように、前述したヘブライ語による旧約聖書の各篇を精力的に翻訳刊行していた。その動きに一筋縄ではいかないある種のしたたかさが窺える。それが一つの謎として私には映じてくる。しかし、そのような戦時中のことは、さて置くとして、中年の半月は平家琵琶、茶道、木石、日本画、日本古美術へとのめり込んで行く。大変な好事家、趣味人ぶりであるが、これも一つの日本回帰であるだろう。徳富蘇峰、蘆花兄弟とはその表出面では違っているものの、キリスト教との距離の取り方においては同じ精神現象と言えなくもない。例えば蘆花は日記の中で、遠く京都にいる半月について二か所ほど触れているが、どれも半月にとっては思わしくない噂ばかりである。例えば「海老名の一雄がぐれ、湯浅の吉郎が女狂ひをする云々。余は同志社絶縁のことを話す。(大正三年三月三十日)」(『蘆花日記・3』)、また「湯浅吉郎が図書館長時代に軟本を謄写版で会員に頒つた云々。淫書と書き立てるある新聞もある。吉郎、一郎、同じ血を引く。俺とても。(大正六年四月一日)」(『蘆花日記・4』)ともある。「海老名の一雄」とは海老名弾正の息子、「一郎」は長兄治郎の息子、半月の甥である。
この日記の記述にある大正三年は、冒頭に触れたが、蘆花が小説『黒い眼と茶色の目』を一月あまりで一気に書き上げた年でもある。またその年、半月は五十六歳、京都図書館長に就任していた。彼はその前に同志社を退職し、京都帝国大学図書館に勤務し、その後アメリカへ図書館学、特に当時の日本に未導入の十進分類法を学ぶため二年も留学し、その後さらにドイツ等の欧米各地の図書館経営を視察旅行して、帰国し、すぐにこの重職に就いていたわけだ。したがって図書館という職場は古美術や古書籍とともに、珍しい艶書、猥褻本等が入手しやすかったのかも知れない。先ほどの藤村の「ルネッサンス」になぞらえれば、このようなエピソードは半月における遅く訪れた一つのルネッサンスを物語っているとも言えよう。ところで同じ時期、徳富蘆花は『黒い眼と茶色の目』で半月を一筆書きのように簡単に描いている。次はその部分の引用だが、そこでは湯浅が「岩佐」になり吉郎が「実郎」で、新島先生が「飯島先生」になっている。
《・・・姉が嫁した義兄の岩佐さんは、飯島先生の同郷で、先生の導きで耶蘇教信者となり、早くから県会議長をして居た。啓二は着京の翌日、招かれて岩佐さんに初対面の挨拶をした。岩佐さんの実弟の実郎さんは、啓二も前二年の協志社で世話になって識つて居る。案山子の舎門下では第一の歌人で、今米国に游学して居る。兄の岩佐さんは実郎さんを烹つめて胡椒をかけた様な人だつた。身長は啓二の矮い姉と一対の好夫婦であつた。》
右の「米国游学」は、断わるまでもないだろうが、半月が二十代の時、古典語習得のための最初の留学を指している。だが、それにしても、このように若き日の初々しい半月を清潔な筆使いで描きながら、蘆花は一方で、中年の多彩なワケしりで、「女狂い云々」の趣味人である現在の半月の噂を耳にしていたわけである。恐らく彼は複雑で面妖な実感を抱いて、苦笑したであろう。それがおもしろい。もっとも徳富蘆花とて同じであった。だから先ほど引用の日記で、「吉郎、一郎、同じ血を引く。俺とても」と言っているのであろう。彼もその頃、人間の本能を絶対視し、原始キリスト教志向から生命謳歌の原始本能解放主義に走り、日記などを見ると身近な女中などと次々と関係をもっていた。そのあたりのことに触れ、その思想を勝本清一郎は「宗教的妄想」と断じている。勝本はその著「徳富蘆花論ーキリスト教との関連においてー」(「現代日本文学全集」54)で、蘆花の晩年の思想は彼のキリスト教が日本ナショナリズムやイザナギ神話と混交され、キリスト教から大幅に外れて行ったさまを分析して見せる。そして「神と人間との断絶も、死の定めも、罪も、十字架も、終末も、最後の審判も、救済も、一切そういう契機を抜きにして、いきなり生命や性欲を肯定しようとあせる。(略)世界救済の中心点が日本であったり、救世主がイエスを押しのけて蘆花夫妻自身であったり、世界新紀元の第一年だの第三年だのと言ったりしているのも病的である」として、「フアッシズムの観念と邪教的妄想とが習合している」と手厳しい。さらに勝本は「では蘆花の晩年十年間の宗教思想は、キリスト教ではないとして、どんなものに一番親近なのか。大本教の出口王三郎の宗教思想に一番近い」とまで言っている。
これが黎明期明治の華々しい「和魂洋才」「和洋折衷」の一帰結であったのか。だったとすれば何とも悲惨な日本近代の歴史的現象ではないか。また勝本はパウロの「わたしたちは、肉にあって歩いているが、肉に従って戦っているのではない」の言葉を引用し、蘆花が「肉の力」だけを選び、生命肯定主義的汎神論に傾斜して行くのを論じ、そこに同志社や組合教会に共通した弱点を挙げている。そのトルストイ主義も似て非なるものだとも言う。このような良くも悪くも「日本的」なものへの過度な傾斜、いわゆる日本への回帰、それは徳富蘆花や兄蘇峰だけに限られた問題ではなかろう。当然、趣味人になったその後の湯浅半月の生き方にも係わって来よう。そしてそれは『十二の石塚』だけが突出したままで、その後の半月の文学活動が立ち枯れるようになっていった(いや、そうならざるをえなかった、自己以外から生ずる時代的強制力などの)問題なども考えさせられる。そして、今更ながら全ての問題は日本近代の出発点にあったことを、ここでも再確認させられるわけである。
しかし半月はクリスチャンのまま一九四三年(昭和十八年)八十五歳で死を迎えた。ところで半月には『死の歌』という興味深い詩がある。死の数年前、一九三七年(昭和十二年)の十一月三日、湯浅半月翁の『旧約聖書』「詩篇改訳完成祝賀会」が上野の精養軒で盛大に挙行されたことがあった。徳富蘇峰、佐佐木信綱等、来会者は皆数十年来の親交ある知人たちで、三十二名にも及んだ。当時の「同志社新報」の記事によれば、半月は『旧約聖書』の死後の観念を洒脱な口調で説明し、ダンテ、ミルトン、ゲーテ、ブラウニング、テニスン等の思想にも触れて、次のような諧謔と多少の滑稽と含羞に富んだ詩を朗読したとある。
死の歌
一、死んで何うなる斯うなると
聞いてなるほどああさうか
さうなるのかと八十に
なつてはじめてわれは知る
二、誰から聞いたと問はれても
それは言ふまい世の人は
何故死ぬことをいやがるか
あまり財産があるからだ
三、死んで何うなる斯うなると
聞いてうれしやさうならば
死んでもよいとおもふまで
長命したいわが身かな
そこにはロマンティックな基督者、詩人、聖書学者、江戸の頽廃趣味のエピキュリアンでもあった、半月らしい達観が、のびのびと生動している。
また彼は生前、安中に自分の墓を建てておいた。ただ「湯浅吉郎墓 半月自建」とだけ刻んである。墓裏には次のような自筆の辞世歌が彫り込まれている。
吾ゆかば天には父のましましてかしこし神の子としたまわむ
それにしてもこの語調や韻律には、やはり池袋清風の面影がある。そして前に述べた正宗敦夫の歌とも通い合うのである。そのいずれもにキリスト教的敬虔と和歌的抒情が分解され、別ち難くまじりあって、美しい世界を結晶させている。これも日本の近代ならではの目立たないが、ささやかな小さな遺産であろうか。 (一九九四年三月一六日)
■参考文献一覧
旧約聖書(昭和二四年、日本聖書協会刊)
日本近代文学大事典(昭和五二年、講談社刊)
近代日本とキリスト教(昭和三一年、基督教学徒兄弟団刊)
日夏耿之介著・明治大正詩史(昭和四年、新潮社刊)
本間久雄・明治文学史(昭和二四年、東京堂刊)
現代日本文学全集54(昭和三二年、筑摩書房刊)
日本近代文学大系「詩集1」(昭和四五年、角川書店刊)
日本現代詩大系・第一巻(昭和四九年、河出書房刊)
日本近代キリスト教文学全集13(昭和五二年、教文館刊)
半田喜作著・湯浅半月(一九八九年、あさを社刊)