羽鳥千尋の墓
平 岡 敏 夫
二十五年ぶりに群馬県佐波郡玉村町坂井の羽鳥千尋の墓を訪ねて行ったら、もうその墓はなかったのだ。もともと四角状の切り石ひとつ、名前も何も刻まれていない墓だから、墓地整理の折、だれも知る人のないままに、踏み石か何かになってしまったのだろう。もともと無惨な青年の生涯であるのに、切り石ひとつの墓まで消えてしまうなんて、あまりにもひどすぎると、暗惻うたた禁じえなかった。羽鳥干尋とは何者か。明治四十五年六月、二十六歳で没した一青年にすぎない。
森鴎外に『羽鳥千尋』(大正元年)という作品があることは今なおよく知られているとは言いがたい。明冶末期に、青年とその死を描いた作品が目立つことに私は注意してきたが、羽鳥干尋も田山花袋『田舎教師』(明治42)の林清三と並ぶものである。もっとも、林清三の場合は、小林秀三という実在の人物をモデルとしているが、『羽鳥千尋』の場合は、本名そのものの実在した人物が主人公である。
「羽鳥千尋は実在の人物である。惜しい事には、今では実在の人物であったと云はなくてはならない。明治四十三年の夏であった。己の所に一封の手紙が届いた。」という書き出しであるが、この手紙は「己の所へ多く届く種類の手紙に過ぎない。己の内に書生に置いてくれと云ふ手紙である」と続く。ところが、この手紙を書いた羽鳥千尋という二十二歳の青年はひとつの注意すべき履歴を持っている、と鴎外は書いている。父は軍医であったが、台湾征討に従軍して帰還後に死亡、高崎中学を主席で出た千尋は、さらに上級学校へ進もうとしたとき、親類の債務にかかわってそれが不可能となり、当時学歴なしに受験できた医師国家試験をめざし、わずか一年半で県一番の成績で合格している。実地試験である後期試験準備のため、見ず知らずの鴎外に手紙を出し、そのはからいで陸軍軍医学校ではたらき、準備中に肺結核が高じて死んだのである。
鴎外の『羽鳥千尋』は本人の書簡の紹介という形をとり、また『田舎教師』は小林秀三の日記を用い、徳富盧花の『寄生木』(明治42)はモデル小笠原善平の日記により、篠原良平という青年将校の死までを描いている。島崎藤村の『春』(明治41)もまた北村透谷の書簡や評論を用いて主人公青木駿一を描き出しているが、日記・書簡などによりつつ、中途にして倒れた青年を描くという点で、方法・主題ともに共通しているのである。
みずからもそれら青年像のひとりであった石川啄木は、明治の青年の閉塞された状況を「時代閉塞の現状」(明治43)として論じたが、挫折する青年の物語が資料に拠りつつ描かれるのは〈時代閉塞〉の現状正視と考えることができるだろう。二十五年前には、羽鳥千尋の妹さんの夫の老人がおられ、その人の案内で、小さな切り石ひとつを羽鳥千尋の墓と確認できたのだったが、そのときの調査をもとに私は「明治四十年代文学における青年像」(昭44・6「文学」)として発表、さらに、羽鳥千尋が鴎外にあてた長文の書簡(作品では鴎外により短く書きまとめられている)が公にされたのを機会に、『日露戦後文学の研究』上巻(昭和60・5、有精堂)の一章で新しく諭じ直し、墓の写真も口絵につけ加えた。
今回、奇しき因縁で玉村町にある女子大学に勤務することになったので、墓地の一画に、羽鳥千尋というひとりの明治青年が眠っているという標識でも立てたいものと考えている。羽鳥千尋は無名の青年にすぎぬとしても、それは志半ばに倒れた無数の近代日本の青年のひとりであるからだ。(「愛と自由」96号 1992.9.1)