羽鳥千尋を訪ねて

平 岡 敏 夫

 森鴎外の小説に『羽鳥千尋』というのがある。明治が大正とかわった年(一九一二)に雑誌「中央公論」に発表された。
 この小説の主人公は実在した青年羽鳥千尋で、現在の玉村に生まれ、玉村で死去した。この羽鳥千尋を調査するため、私が玉村を訪れたのは昭和四十一年の初冬であった。運転免許をとったばかりのころで、当時東京の郊外の東村山市に住んでいたので、所沢・東松山・熊谷・深谷・本庄・新町というコースをたどり、烏川を渡って玉村の板井へ行った。今は県立女子大学の専任となっている玉村出身(川井)の小内一明教授の案内もあって助かった。
 当時、羽鳥千尋の妹(故人)の婿である老人が御存命であり、その方が田んぼの一廓にある墓地へと案内してくれた。羽鳥老人は墓地の中ほどにある四角な切り石を指さして、「これが千尋さんの墓なんですよ。ちゃんとした墓石はまだ建てることができないで……」と何か済まなそうな口ぶりだったことが思い出される。この時撮影した切り石の写真が現在では唯一の羽鳥千尋の墓を示すものとなってしまった。今は墓地は整理され、その切り石はどこへ行ったか、影も形もないからである。
 この時の調査の結果は、雑誌「文学」(昭44・6、岩波書店)に、「明治四十年代文学の青年像」と題して、田山花袋の『田舎教師』の主人公林清三、徳富蘆花の『寄生木』の主人公篠原良平などとあわせ論じて発表している。その一節を引いておこう。
 羽鳥の妹の夫なる人に案内されて、病床の羽鳥が見はるかした田園の一隅の墓と称するものの前に立ったときの衝撃を忘れることはできない。そこにはさながら路傍の石のごとき小さい切り石が置かれてあるきりで、弱々しい冬の日ざしが薄い影を作っていた。この石一つの上に広く重くのしかかっている明治の重い現実を感じないわけには行かなかった。陸軍軍医であった羽鳥の父の碑が一きわ大きくその前に立っていた。
 小説『羽鳥千尋』の研究は、岩波書店の新しい『森鴎外全集』にはさみこんだ月報に、羽鳥千尋が鴎外に出した長い手紙が発表されたことによって、新しい段階へと入った。もともとこの小説は、羽鳥千尋から来た手紙を発表したかたちのもので、私ははじめからその文体が鴎外自身のものであると考えられる以上、羽鳥の手紙を作者鴎外が自分流にリライトしたものだろうと考えていたが、案の定、鴎外はこの長い長い手紙を適当に切りつなぎして文体を変えて発表したことがわかった。
 父羽鳥文作は明治二十七、八年の日清戦争後の明治二十九年に台湾へ赴任、風土病にかかり帰国、明治三十二年に小倉衛戍病院一等軍医心得(中尉相当官で大尉相当官の職務を行う)となるが、明治三十二年四月二日、三十五歳で没した。このことは墓地の大きな石碑に刻まれていることである。鴎外は明治二十八年五月、日清戦争から広島へ帰還するとすぐ台湾の反乱鎮圧に出征、八月に台湾総督府軍医部長となるが、九月解任、十月に帰京、一等軍医正(大佐相当官)となっている。文作は鴎外より一年遅れて台湾に行ったわけで、鴎外は明治三十二年六月、軍医監(少将相当官)に昇進とともに小倉の第十二師団軍医部長として赴任、その二ヶ月ほど前に文作は小倉で死去していた。台湾・小倉とすれちがいだったのだ。鴎外はとくに小倉で羽鳥文作二等軍医の死を聞いていたはずである。
 羽鳥千尋の手紙を読んだとき、鴎外にとっては死んだ陸軍軍医の息子であることからくる親近感が台湾・小倉という因縁もあって、より深く感じられたことだろう。だが、鴎外は『羽鳥千尋』にこうした因縁を書かなかった。個人的なことを書かないというところ、いかにも鴎外らしいが、個人的因縁からする羽鳥千尋への共感・哀惜ではなく、「世間にはなんと云ふ不幸な人の多いことだらう」という、当時の志を得ないで世を去って行く不幸な青年たちへの普遍的な共感・哀惜なのである。その青年の父を知っているかどうかといったところから発したものではないのである。
 「文学」に羽鳥千尋ら志を得ない青年たちのことを書いたあと、羽鳥千尋の手紙が公表されたのをふまえて、『日露戦後文学の研究』上巻(昭60・5、有精堂)の第三部「青年と死」で「羽鳥千尋」を再論した。最近、佐々木啓之『眠れ胡蝶よやすらけく─森鴎外に愛された一青年の生涯─』(平7・4、近代文芸社)が出て羽鳥千尋とその妻タイの写真まで掲載された。新事実がいっぱいだが、「千尋の墓とおぼしき墓石のない墓」と説明のある写真は残念ながら右の拙著で掲げたものではない。
 ともあれ、一日も早く玉村町教育委員会などにより、千尋の墓地に「森鴎外『羽鳥千尋』」の碑が建つことを願わずにはいられない。(「上州路」263号 1996.4.1)