真珠湾攻撃・岩佐中佐の墓
平 岡 敏 夫
ハワイはまだ一度も訪れたことはないが、今の若い人たちはよく出かけるのに、真珠湾やその戦跡などにはあまり行かないらしい。私など、もしハワイヘ行くなら、ワイキキのビーチなどよりもまずパールハーバーへ行ってみたいと思う。
昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃、日米開戦のときは、この年四月から国民学校となったその初等科六年生だった。宣戦の詔書をすべて暗記しているただ一人として朝礼で挙手をしたことを覚えている。とりわけ強い印象が残っているのは、特殊潜航艇に乗り、真珠湾に潜航した九軍神のことである。すべて二階級特進したその指揮官は岩佐中佐だった。その岩佐中佐の墓が前橋駅近くの松竹院にあることを知ったのは二年前、こちらに赴任して来てからだった。県庁の帰りに運転手さんが案内してくれたのである。岩佐中佐が群馬県の出身であることも記憶になかった。前橋中学から海軍兵学校へ進んだのである。
先日(94・3)再訪し、墓域に置かれているいくつかの碑のうち、小学校卒業生総代として読んだ「答辞」(昭2・3・30)を写した。「私達ハ校長先生ノ御訓辞ヲ身ニシメテ卒業イタシマス ソシテ勉強ヲシ行ヲ正シテ一人前ノ人間ニナル覚悟デゴザイマス サラバ先生ガタ 多クノオ友達 母校ヨ」が結びである。戦時色のまだなかった昭和二年ごろ、「一人前」になると言った岩佐直治少年の心にすでに海軍軍人の夢があったのかどうか。
「遺書ノ碑」もあって、「三千年の光輝ある歴史は一朝にして破壊され、延びゆく大和民族の壮図は中道に挫折す、此の秋此の世に生を承け此の難関突破の使命を負ふことを得たる」ことは軍人として本懐とする旨が書かれていた。昭和二年の小学校卒業から昭和十六年までの十四年の時代と教育が、「一人前ニナル覚悟」をこのように実現させたのだった。
数年前、アメリカで教えていたとき、真珠湾攻撃の日が近づき、新聞にも出た。学生から不意打ち非難を言われたら、宣戦布告に先立って旅順を攻撃した日露戦争の日本の戦果に、米国民が歓声をあげた話をするつもりだったが、その日は何ごともなく終った。真珠湾攻撃をもって広島・長崎の原爆投下を正当化する考えが今なお米人にあるようだが、一方は軍事施設攻撃である、他方は一般市民への無差別攻撃だと批判する米人もいると聞く。
岩佐中佐の墓域には、読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲とある「軍神岩佐中佐」の歌碑もあった。「仰ぐ赤城の山は映え/大利根めぐる厩城下/こゝに建武の血をうけて/郷土群馬に男子あり/姓は岩佐ぞ名は直治」ではじまり、四番まであるが、「見よや類なき大戦果/輝く特別攻撃隊/率ゐて散りし武士の華/軍神岩佐中佐こそ/その名燦たりとこしへに」で結ぶ。おそらく読売新聞が募集し選んだのだろうが、私の記憶にはない。昭和十七年四月、文部省検定済とある。昭和五十八年三月彼岸、岩佐直衛建之とあるが、岩佐一族としては、現在、すでに若い世代にとってはまったく未知、無関心となってしまっている岩佐直治のことを、当時はこのようにうたわれていたのだと訴えたかったのだろう。
今どき、この歌碑を建てたからといって、真珠湾攻撃の讃美、戦争の美化・肯定だと目くじら立てる人はいないだろうが、私もまた岩佐直治という、二十六歳で真珠湾に沈んだ一青年のことを忘れてはならぬと思う。やがて特攻に行くはずの少年兵だった私自身の戦争体験を忘れないため、戦争の無残さを忘れないためである。(「愛と自由」107号 1994.7.1)