上毛の三山
平 岡 敏 夫
高崎線で深谷を過ぎ、本庄に近づくころから、読むのをやめて窓外に眼をやるのが習慣となった。快速列車アーバン号では本庄の次が下車駅である、新町だからでもあるが、何よりも上毛三山が見たいからである。
昨年四月、群馬の方へ赴任して来てから、あいさつなどで何度上毛の三山に言及したことだろう。県議会開会にあたり、新任のあいさつをしたときにも、自分は瀬戸内の産であるが、小学校の教科書で、「上毛の三山」というのを習ってからというもの、つねにこの三山のことを忘れず、この北関東平野を上毛三山が囲むかたちの上州が、日本の原郷のような気がして、生まれ育った土地でもないのになつかしい気持ちがします、と述べたほどだった。
最近、赤城山が「あかぎさん」ではなく、「あかぎやま」であることが認められ、国土地理院の方でも正式にそうきめたという新聞報道があった。なるほど東海林太郎の歌でも「あかあぎいやあま」であった。私の部屋からは残念ながら、三山とも見えないが、広い会議室へ行くと、真正面に赤城、左前方に間近く榛名、そして、やや遠く左に妙義が見える。妙義山が見えるよりもはやく、今は真白の浅間山が眼に入るのだが、三山はそれぞれ特徴があり、山容はいくら眺めてもあきることがない。赤城と榛名の間に子持山というのがあって、赤城と子持山の間に、よく晴れたときには、谷川岳が見えるといわれ、ある日ついに雪をいただく谷川岳を見つけたときはうれしかった。
瀬戸内に生まれた私がなぜ上毛の三山にひかれるのか、考えてみたことがある。小学校教育の成果であろうか。それなら、みんなが国定教科書で習ったはずなのだから、私だけのことではないはずだが、教科書で習ったという人に実はまだお目にかかったことがないのである。記憶はたしかと思うので、いずれ市ヶ谷近くの教科書センターへも立ち寄って調べてみたいと考えているが、もうひとつ、私が瀬戸内に育ったということ自体に理由があるのかも知れないと思った。昨年、「塩飽の船影」というエッセイ集を出したが、私の生まれたのは、四国の香川県と本州の岡山県との間、つまり備讃瀬戸といって、瀬戸大橋のかかっているあたり。塩飽諸島の広島というところである。向かいには丸亀・坂出・多度津が見え、フェリーで30分くらいの距離だから、ごく狭い海域である。子供の時から、讃岐富士といわれる飯の山、そして少し遠くにこんぴらさんのある象頭山が見えるといった風景を眺めて暮らしていた。島かと思えば岬といった狭い瀬戸内の海域にあっては、北関東平野、そしてそれを見おろす上毛の三山が形づくる広々とした空間が、あこがれの対象になったのかも知れない。
加えて、「兎追いしかの山、小ぶな釣りしかの川」といった小学唱歌からきた日本の農山村のイメージも、関東平野、上毛三山のイメージ形成に力あっただろう。何しろ私の故郷の島には田んぼはほとんどなかったから。上州の人びとも上毛の三山、上州という土地をほこりにしているらしい。朝、赤城に雲がかかると午後は風が吹くという。生涯あきない山々なのだろう。日本の美しい山河を守るといった意味でも、上州の人びとと共に、私は上毛の三山の子供の時からのイメージをたいせつにして行きたいと思う。
それにしても、はやく戦前の教科書の「上毛の三山」を探しあてたいものだ。そこには三山のスケッチもあったような気がする。(「愛と自由」100号 1993.5.1)