田山花袋(たやま かたい)

渡 邉 正 彦

 1872(明治5)年1月22日〜1930(昭和5)年5月11日。 本名禄彌。 自然主義文学を代表する作家の一人。 邑楽郡館林町に父ワ十郎、母てつの第五子、次男として生まれた。 父は元館林藩士で上京して警視庁巡査となり、10年の西南戦争で戦死した。 一家は館林に帰り、花袋は高等小学校入学の明治19年まで、旧藩の藩儒吉田陋軒の塾や帰省した兄実弥登から漢文の素読、漢詩の作法を学んだ。 城沼の岸辺や旧城跡の壕端で遊び、自然や旧跡に対する感性と感情を養われ、投稿誌「穎才新誌」に漢詩、短歌、小品文を投稿した。 15歳の時、漢詩集『城沼四時雑詠』を編んでいる。 明治16年に一家とともに上京、軍人を志望して四谷の速成学館で学び、陸軍幼年学校受験に失敗し、日本英学館(後明治会学館と改名)、日本法律学校で学んだ。 上野の図書館に通い、古典や多くの文学作品に触れた。 歌人松浦辰雄に入門、柳田国男と知る。 明治24年、尾崎紅葉を訪問、その世話で「千紫万紅」に「瓜畑」を初めて発表、25年に「国民新聞」に連載した「落花村」で初めて花袋の号を用いる。 以後、感傷的・抒情的な新体詩や美文調の文体で失恋や死を主題にする感傷的な小説を次々に発表。 30年に国木田独歩らと詩集『抒情詩』を刊行。 博文館編集局に入社、「中学世界」『大日本地誌』「文章世界」(主筆)などの編集に従事。 北信州の山村で見聞した事件を素材にした初期自然主義の代表作『重右衛門の最後』(明35 新声社)を刊行。 37年、日露戦争勃発により博文館から派遣されて遼東半島に従軍。 明治40年に女弟子への愛欲と自己の生活を赤裸々に告白し、以後の文壇に大きな影響を与えた私小説「蒲団」(「新小説」)を発表して作家的地位を確立した。 以後は明治から大正にかけて自己の血縁や近縁者を平面描写の手法で描いた『生』『妻』『縁』『時は過ぎゆく』、あるいは、妻りさの兄で親友の詩人太田玉茗が住職をしていた埼玉県羽生町の建福寺の下宿人だった小林清三をモデルに、立身出世に挫折して肺病で死ぬ青年の半生を関東平野の自然を背景に描いた『田舎教師』、脱走兵の放火事件と半生を描いた『一兵卒の銃殺』、芸妓飯田代子との関係の苦悩とそこからの脱却を宗教的境地に求める『残雪』『恋の殿堂』や歴史小説『源義朝』『道綱の母』などのほか、愛欲の果てに得た平安で清澄な心境を描いた晩年の傑作「百夜」(昭和2「福岡日々新聞」連載)などがある。 群馬県を舞台にした作品に小説「土手下の家」「二人の最後」「河ぞひの春」などのほか多くの紀行文や随想がある。 他に『第二軍従征日記』、文壇回想記『東京の三十年』、文学評論『近代の小説』、紀行文『山水小記』など。 参考文献:小林一郎『田山花袋研究』全10巻(桜楓社)。