村上鬼城と内村鑑三

平 岡 敏 夫

 さわやかな初夏の候、高崎に一泊して翌朝早く散歩に出た。高崎城趾をめざしたはずだったが、大きな道路工事にさえぎられて左折し、さらにまた右折して、下り坂を行くと、高崎観音像が小さく山の上に見えはじめた。道をまちがえたかなと右手を見ると、竜広寺という大きな寺があった。村上鬼城の墓所とある。門前を掃いている老婦人に聞くと「どうぞお参りして下さい」ということで石段をのぼる。左手に「旧ロシア人兵士之墓」の標識があり、関心を持ったが、その方向の鉄門は閉ざされていた。なおも進むと村上鬼城の墓所の大きな標識が立っていたが、そのあたりを探しまわってもわからない。あきらめかけているところに、墓地を横切ってくる青年が親切に案内してくれた。
 一茶とも比較される近代の代表的俳人村上鬼城がここに眠っていたのかと感動する。高崎市教育委員会の案内板があって、鳥取藩士の長男で昭和十三年九月十七日、七十四歳、高崎で没したとあり、代表作として「春寒やぶつかり歩く盲犬」「浅間山の煙出て見よけさの秋」の二句が添えられていた。「冬蜂の死に所なく歩きけり」の句なども思い出したが、鳥取藩士の子がなぜ高崎で没したのか。
 竜広寺のさき、大通りの角に頼政神社があった。内村鑑三碑ともあったので石段をのぼると、高崎藩主の祖が源三位頼政である旨の案内板にもまして内村鑑三の碑文に心ひかれた。上州人は無智無才、剛毅朴訥でだまされやすいが、ただ正直をもって万人に接し、至誠神によって勝利を期すと漢文で書き、英文で次のようにあった。"I for Japan,Japan for the world,The world for Christ,And All for God."
 ホテルから大学に来て、図書館で調べたら、鬼城の父が廃藩置県後、高崎裁判所に勤務とあり、鑑三が高崎藩士の子で、二つのJ(Japan,Jesus)を心から愛していたとあった。(群馬県立女子大学附属図書館館報「図書館だより」14号 1992.7.31)