南木佳士(なぎ けいし)

松 本 鶴 雄

 南木佳士は昭和二十六年(一九五一年)十月に吾妻郡嬬恋村に生まれた。本名は霜田哲夫。父重義は入り婿で鉱山会社に勤め、母つぎは群馬女子師範を出て、地元で小学校の教師をしていた。南木の四歳のとき母が結核で死亡したため、その後は祖母に育てられた。短編集『冬物語』(平成九年刊)の「ウサギ」に、当時を語った次のような場面がある。
《群馬の山村の谷間、山の中腹にある小学校に通っていた。再婚した父はバスで二時間もかかる鉱山の社宅にいて週末にしか帰って来なかったから、ふだんは祖母と姉の三人で生活していた。父からのわずかな仕送りで暮らしていたので貧しかったが、祖母の枯れておだやかな母性にくるまっていればよかったので、我がままで小心な少年に育っていった。》
 しかし父が東京へ転勤したので、中学から東京に行き、都立高校から秋田大学医学部をへて長野県南佐久郡臼田町にある佐久総合病院の医師になり、現在もその地に住み内科医長を勤めながら、小説を書いている。そこから一時期、軽井沢の町立病院に派遣されたことがあった。「軽井沢は生まれ育った群馬の山村のとなりの町である」。そこの風物や縁戚にあたる人間たちに親しんでいるうちに生まれたのが、第百回芥川賞の『ダイアモンドダスト』平成元年(一九八九年)であった。
 もっとも南木佳士の文学熱は高校時代からであった。国文科を志望したのだが、国文では食えないと思い浪人してまで医学部へ行った。だから医師になってからも数回「文学界新人賞」に応募した。昭和五十六年(一九八一年)にはカンボジア難民救済医療団に参加、現地の悪条件の中で医療活動をしていた最中に『破水』が第五十三回文学界新人賞になった知らせが、飛び込んで来た。芥川賞候補も数回続いた。南木の芥川賞受賞の言葉がいい。「学校を出たての二十四、五歳の若者が、多くの想い出を抱え込んだまま旅立つ死者を見送ることは、苦痛であった。この苦しみから抜け出したくて小説を書き始め、もう十年になる」。医療と文学の見事な結晶であった。
 芥川賞の『ダイアモンドダスト』の主人公は軽井沢町立病院の看護士。母は早く他界し妻もガンで早逝、昔の草軽電鉄の運転手の父と一人息子だけの男三世代の生活。この小説には作者の過去が細分化されている。ある日、病院にアメリカの中年宣教師が入院する。彼はベトナム戦争のファントム戦闘機乗りだが、今は肺ガンの末期、主人公の父も脳梗塞で倒れ同じ部屋に入院する。死期が迫っている日米の老人同士の友情は感動的だ。また都市化していく山村や老人問題、家族関係等のテーマを通し現代の病根を突いた名作である。それ以後もこのような視点からの小説が多い。