徳冨蘆花のこと

平 岡 敏 夫

 世田谷の蘆花公園へは何度か行ったことがあるが、蘆花がよく訪れ、昭和二年九月十八日そこで死去した伊香保の徳冨蘆花記念文学館を訪れる機会はなかった。群馬県に勤務して五年目の春、県立女子大学国文学科一年生七五名の一泊研修が榛名湖で行われ、伊香保にもまわる予定だから講演をしてほしいという要望があった。チャンス到来と四月はじめ、雪が降りしきる榛名湖の宿で「徳冨蘆花の文学」と題して一時間ほど話した。
 学生は群馬県内が34%、北海道から九州まで全国33都道府県から66%であったが、蘆花の名を知っている人という質間に手をあげたのは十人に満たなかった。名は聞いたことはあってもよく知らないので挙手をしなかった学生もいたかも知れないが、今日、大学の卒業論文で徳冨蘆花を主題にする学生はほとんどいないのではないか。その証拠にレポートや卒業論文に関するガイドブック、必携類には坪内逍遙・二葉亭四迷以下戦後作家まで懇切な研究案内があるのに、徳冨蘆花の名はないのである。研究者それ自体がきわめて少数なので、大学でも蘆花に関する講義などもあまり行われていないとみるべきである。
 立教大学の藤井淑禎教授が『不如帰の時代』(90・3名古屋大学出版会)を刊行しているが、下宿屋の前を女学生が通りかかると、二階の窓から「浪さん、川島武男は居りますよ」などと声をかけるほどに『不如帰』(明31〜32)は一般に浸透しており、不如帰の時代と藤井氏は呼んでいる。『不如帰』がつきつけた戦争・結核・家族制度などの問題が戦後まで持ちこされているとすれぱ、不如帰の時代は明治三十年代から昭和二十年代にかけての五、六十年間を指すことになるとも言う。こういう新しい視点の研究が出ているのは蘆花文学のためにもまことによろこばしいことだが、私はかつて新聞から一冊の本をあげよと言われて、蘆花の『思出の記』(明33)をあげ、この自伝的長編が戦後間もない少年の私をいかにひきつけたかについて書いたことがある。『思出の記』を百数十回読んだという記録があるが、『不如帰』も『思出の記』も戦後になっても忘れられない作品として残っていたのである。
 海軍少尉川島武男と妻浪子の純愛と呼ぶべき夫婦愛を引き裂くのは、姑に代表される封建的な「家」の単独のカではもはやむずかしい、肺結核の力を借りることによって、かろうじて「家」(姑)は勝利できたとするのは勝本清一郎説であるが、水谷八重子最後の『不如帰』上演を国立劇場で見たのは何年前だったろうか。水谷八重子の浪子は「あゝ辛い! 辛い! 最早──最早婦人なんぞに──生まれはしませんよ。──あゝあ! 」という言葉を吐かなかったことをはっきり記憶している。夫婦愛を引き裂いたものに対するこの強烈な批判を舞台に出さないで、ひたすら観客の涙を誘おうとしたのだろうか。このような演劇化が『不如帰』を通俗的なものにし、純文学中心に書かれてきた文学史や文学研究が蘆花の文学をオミットするようなことにもなるのだろう。
 明治四十三年の大逆事件で、蘆花は一高で「謀叛論」と題して講演、当時一高生だった芥川龍之介も聴いたはずで、芥川の『羅生門』にはその影響があると都留文科大学の関口安義教授は言っているが、文壇をはみ出す社会性が蘆花の文学にはある。今後積極的に蘆花を研究・教授して行かねばならないと思う。待望の伊香保の蘆花文学記念館は予想をこえたすばらしいもので、他の研修バスも何台か来ていたが、蘆花の再評価を念じてやまない。(「愛と自由」119号 1996.7.1)