◇『室生犀星研究』十号 平成五年十月掲載

朔太郎『青猫』時代の書簡をめぐって

和 田 義 昭

 筑摩書房版『山村暮鳥全集』全四巻(一九八九〜一九九〇)の編集過程で、萩原朔太郎の佚文を確認したので、大方の参考に供したい。ここに紹介するのは、山村暮鳥に宛てた萩原朔太郎の書簡で、補訂版『萩原朔太郎全集』第十三巻「書簡篇」及び「補巻」のいずれにも未収録である。また、萩原朔太郎に関する従来の研究で本書簡に触れた論文は管見では見当たらない。
 書簡本文は、山村暮鳥主宰の雑誌「苦悩者」第六号(大正八年三月一日発行)に掲載されたものである。雑誌「苦悩者」は、暮鳥主幹の黎明会(水戸市上市新鳥見町九百三十四番地大関五郎方)が大正七年十月に創刊した月刊誌で、大正九年一月発行の第十四号まで大関五郎が編集。その後休刊して大正九年六月に第三巻第三号、七月に第四号をみどりや書店発行、花岡謙二編集で再刊した。この十四号までが暮鳥主宰の第一次「苦悩者」であり、花岡謙二編集分からは、民衆詩派的傾向を濃厚にしている。従来閲覧可能だったのは、創刊号と八号、九号が稿者所蔵で、四、五、十、十一号が遺族の土田家所蔵、上記に重複した数冊が日本近代文学館所蔵であった。しかるに、今回の調査で「苦悩者」同人であった友常幸一(小雨)のご遺族友常一雄氏が、多くの資料を保存しておられたことから、第六号を確認することができた。「苦悩者」第六号は、巻頭に青木茂の「色々な事」を載せ、続いて花岡謙二、吉野義也、磯貝弥、生田耕人、中村勝喜、大関五郎、藤井栄次郎、寺崎徳、大高暁光、武田善右衛門、友常小雨、山村暮鳥、高橋鶏鳴、柳橋好雄、萩原朔太郎の順に並んでいる。そして表紙には、暮鳥宛有島武郎書簡の全文が掲載されている。この有島書簡は、詩集『梢の巣にて』(大正十年五月 叢文閣)の序に使われている。では、早速、朔太郎書簡を次に掲げる。(注1)
  手紙
                         萩原朔太郎
  山村兄、
 たいへん御無沙汰しました。長いこと消息をしなかつた。併しそれは兄のみではなく、何ぴとに対してもした御無沙汰であつた。自分はすつかり考へぶかくなつてしまつた。世間的のことがすべていやになつた。孤独と冥想、それが私のいちばんなつかしい友である。この一年余自分は全く「独りぼつち」で考えへてゐた。時々世間の風が、自分の市仙的生活を侵害するので、必要上、新聞紙すらもよまずにゐた。
  併しかうした生活の中にあつても、兄のことはわすれなかつた。何故といつて、兄は室生と共に、私の最初からのよき同志であり、最初からのよき兄弟であるから兄を理解することでは、今も以前も更に変わらない。愛敬する暮鳥兄、近来の詩壇に於ける兄の新運動は、影ながら自分を悦ばせ、自分に力と光とをあたへた。兄の新生はめざましいものである。それは詩壇に於て、明らかに第二のエポックを画しうるもの、そこに「時代の新潮流」を感じ得る。そこから振ひたて、すばらしい兄のリズムが、預言者の如く、野に呼ばるをきく。自分にとつての最も大きな歓喜です。
 兄の健康が、そんなにも悪かつたといふことは、殆んど意外の新聞である。そんなにも悪い状態にあつたのか。だがそれは、勿論、肉体上の不幸ばかりではないでせう。むしろもつとひどいもの、樒神上、生活上の難題もあつたのでせう。何かのひどい原因によつて、兄が苦しんでゐることは、この間中から直感的に知つてゐた。何故といつて、兄のこの頃の詩は殆んど挑戦的−人生に対する挑戦的−の者ばかりでもあるからである。おお、何よりも詩集について感謝しなければならぬ。「風は草木にささやいた」は、自分にすぎた贈物であつた。心からお礼を申しあげる。実に堂々とした立派な詩集ぢやないか。聖三稜玻璃と共に、新詩壇の驚異となるものである。併しこの二つの詩集をくらべてみると、兄の生活上に於ける思想や感情の変移がよくわかる。それはある意味に於て、明らかに悲壮な歴史である。人間の悲壮な歴史である。
 
 三稜玻璃時代の兄は、今から顧りみて、何といふ貴族的なお坊ちゃんであつたでせう。この「お坊ちゃん」といふことは「純真なウブの人間」といふ意味である。この頃の兄は、何といふ物柔らかな優しい心、自然に対するいとしげな愛をもつてゐた詩人であつたらう。プリズムの光をいとほしみ、光る噴水に情緒のいみぢきリトムを感じた兄の姿は、この上もなくいとしげで、この上もなく物柔らかな処女のやうである。之れにくらべて今日の兄、「風は草木にささやいた。」の兄は、むしろ恐ろしい怒を内部をつつんだ意志の爆発である。兄は人間を愛し、生活をいとしめといふ。しかもさうした声の影には、言ひがたき苦難の嘆息があるではないか。兄はホイットマンの如く、肉体的健康の歓喜に於て、光明的な人生を讃美する人ではない。「おお、この自然の美しさ。」といふ言葉は、兄の口から出るときと、ホイットマンの口から出るときでは、このリズムが全くちがふ。自然児としての−生まれつきの楽天家としての−ホイットマンのリズムと、心や肉に痛みのある兄のリズムとはたちがちがつてゐる。兄の生活讃美は、むしろ生活に対する挑戦である。苦々しき背景をもてる黎明である。序詩の「人間の勝利」は、さうした兄の思想をよく語つてゐる。あらゆる不幸、あらゆる苦痛、あらゆる迫害に対して、歯がみしつつ運命を切り開かうとする兄の心を思ふと傷ましい。聖三稜玻璃の山村暮鳥は、自然をいとほしみ、人生を愛する詩人であるが「風は草木にささやいた」の山村暮鳥は、自然に向かつて肩を怒らせ、人生に対して歯がみをする人である。「愛より戦へ」兄の運命を導いたものは何であるか。思ふにそこには非常なものがある。兄の苦しき歴史を語るものがある。恐らくは人知らぬ精神上の煩悶と、肉体上の打撃と、とはいへ、兄は矢張「やさしき処女の愛をもつた人である。兄の自然人生に対する愛は、昔も今も変わらない。変わつたのはこの外貎だけである。昔の兄は、自然を手にとつて愛まうとする人、プリズムを通じて太陽の美を眺め、卓上の静物や舟坂に登る図案の奇蹟によつて、宇宙自然の気凛を会得しやうとする人、一言にして言へば「彼の懐に自然をあたためる人」であつた。そして今の兄は自然をそれ自身の位置に置いて眺める人である。

 今や兄は、卓上の静物を捨てて、雪と霙に吹きさらされた裸形の自然を眺め、プリズムを捨てて、炎天の野原に太陽の光を浴びやうとする、それが等しく自然であり、それが等しく神の智慧であることに於て、元より室内の静物も戸外の曠野も、プリズムの太陽も、青空の太陽も、何等異なる所がないのであるが、ただかかる趣味の変化は、人間の生活に於けるさまざまな運命とその不思議な成り行きとを暗示する。そしてこの趣味の変化こそ、取りも直さず「人間としての歴史」若しくはその哲学に於ける中心思想を語るものである。

 この事実は、集中「春」を始め、すべての詩に於て著るしい。一面から言へば、「風は草木に」のすべての詩篇は、皆自然の美を歌ったものであるが、就中「春」や「荷車の詩」や「郊外にて」や「麦畑」の詩には、如何にも兄らしい愛−物柔らかの愛−がよく現はれてゐる。此等の詩をよむ人は、必して兄を「強い心の詩人」とは言はないであろう。何故ならばそれは「強い心を得んと願ふ弱い心の祈祷」であるからである。そこによく行き届いた感情がある。兄のいふ「力」は、恐らくこの親切から生れてくる力であろう。然り、真の力は真の智慧から生れる。力とは畢竟、美の別名に外ならないからである。「苦痛は美である」といふ兄の言葉は如何に意味深いかな。
 集中自分の好きな詩は「ランプ」「春」「荷車の詩」「海の詩」「秋ぐち」「この世界のはじめもこんなであつたか」「妹におくる」「記憶の樹木」等です。今の自分の傾向は、思想に於ても、感情に於ても兄とはむしろ反対の側にあるかも知れない。何故といつて、自分には未だ兄のやうな立派な体験−人間といふ人間の辛棒づよくもさがしてゐた者の掴得といふ体験−がない。自分は益々厭生的になり益々悲観的になってゐる。しかも遂に何物をも掴むことができない。げに「力」そのものすら、自分にとつては謎である。(私は自由意志を信じないから)。併し自分は、自分が反対の傾向にある所以を以て、却って兄の新生を祝福せずには居られない。
 この書簡は暮鳥から贈られた詩集『風は草木にささやいた』の礼状である。『風は草木にささやいた』は、大正七年十一月十五日、白日社発行で、大正六年一月から大正七年十一月までに「詩歌」「感情」「第三帝国」「新潮」「青年文壇」「短歌雑誌」「現代詩歌」「新進詩人」「文化運動」「苦悩者」等に発表した百二十四篇の詩が収録されている。四百字詰原稿用紙八枚に及ぶこの書簡は、当時の朔太郎の「歓喜」を示して余りあるものがある。
 この書簡は、「苦悩者」第五号の印刷が八年一月二十八日で、第六号が二月二十六日の印刷であることから考えて、一月下旬から二月上旬の間に書かれたものと推定される。この時期の朔太郎書簡は補訂版全集に収録されているかぎりでは七年が七通、八年九通、そして、九年は四通で意外に少ない。
 まず冒頭に「孤独と瞑想、それが私のいちばんなつかしい友である」とある。当時の朔太郎は、大正七年から十年にかけての空白期、所謂、詩作中断期のさなかであった。この中断期のもつ意味については、さまざまな論議がなされ検討されている。 中でも那珂太郎氏(注2)は「詩論へのエネルギーの傾注」と「詩法上の転機をつかみ得なかった」ことによるとし、 平田利晴氏(注3)は那珂説をさらに深め、「新しい詩表現の方途を求めての、表現者朔太郎にとっての行脚」であったとする。そして、この空白期を挟んで、前後に『青猫』詩篇が成立している。そのようなことから考えて、この書簡は、朔太郎自ら語っているように「何びとに対してもした御無沙汰」のため極めて数少ない当時の書簡のなかに、新たに一通を加えることになり、詩集『青猫』詩篇成立当時の状況を知るための一つの貴重な資料であると言える。
 朔太郎は、大正六年十一月に高橋元吉に宛てた手紙のなかで、夏目漱石の『行人』について触れ、「あの「行人」の手紙に現はれた主人公の苦脳は私自身の実感を恐ろしいほど心理的に描いて居ますこう書いてあります。『兄さんは書物をよんでも、理屈を考へても飯を食つても、散歩をしても、二六時中何をしてもそこに安住することができないのだそうです、何をしてもこんなことをしては居られないといふ気分に追駆けられるのだそうです「自分のしてゐることが自分の目的になつて居ないはど苦しいことはない」と兄さんは言ひます』此所を読んで私は戦慄しました。私自身の実感があまりに残酷に直写されてゐるからです、私の憂鬱や厭世や感傷の原因は凡てこの言葉の中につくされて居るのです、」と書き、自己のいつわらざる内面を告白している。朔太郎は『行人』の一郎の不安と苦悩に自己の内面の不安と焦燥を二重写しにすることで、憂鬱や厭世の原因を確認し増幅させているのである。つまり、「かうしては居られない、何かしなければならない、併し何してよいか分らない」という不安と焦燥、人生の目的の発見に苦しんでいたわけである。このような理想を求める内面の形象化は、既に「虹を追ふ人」(「感情」大正五 六)で試みられている。切実に希求しながら得られない、希求しながら、その対象に満足しきれない、その対象を獲得出来ない心の内奥の深部に潜む思索的苦悶、それによってもたらされた感覚的憂鬱性、即ち朔太郎の言う「憂鬱」「厭世」「感傷」を如何に表象すべきかという詩法上の苦悶の極点こそ詩作中断の原因であったと考えられる。暮鳥宛書簡とほぼ同時期、大正八年一月二十五日付の前田夕暮宛書簡でも「私は私の孤独生活―よるべなき魂の苦しみ―に疲れたのです。かの「虹を追う人」以来、私の同じ旅行「虹を追うための旅行」はつづいて居ます。私は私自身のために「生甲斐のある生活」「意義のある生活」を求めんとして、今日尚思想と感情との倉庫をめぐつてゐます」と書いている。
 この空白期に朔太郎は、那珂太郎氏が既に指摘されているように、詩論やアフォリズムに傾注している。このことは、当時の書簡、特に白鳥省吾との暮鳥をめぐる論争(大正六年十一月、十二月)を見ても明らかで、それはまさしく書簡と言うより、詩論と言ってしかるべきものである。自己を離れて芸術至上主義の観点からは、『聖三稜玻璃』の詩篇を賞賛しているが、己れの詩作の在り方からは、「私は人間としての感情の純真を伴はないそうした卓上芸術を自分の信念の上から断じて許すことはできない」と厳しく批判する。そこには己れの詩作上の問題を追求する朔太郎の姿がある。
 ところで、『青猫』前派の作品を検証すると、最も早い時期の作品から見るが、

  なんといふさびしい海岸だ
  ながく呼べどかへらざる幸福のかげをもとめ
  沖に向かって眺望する
             (「沖を眺望する」「感情」大六 二)
  われの求めてやまざる幸福の青い影だ
                 (「青猫」「詩歌」大六 四)
  しだいにおほきくなる孤独の日かげ
  おそろしい憂鬱の日かげはひろがる
               (「蝿の唱歌」「感情」大六 五)
  しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる
           (「恐ろしく憂鬱なる」「感情」大六 五)
  どこへどうしてながれて行かうとするのか
  私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
        (「群集の中を求めて歩く」「詩歌」大六 六)
  春がくる 春がくる
  春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを
  吹きならす笛のひびきのやうだ
               (「春の感情」「新生」大七 一)
 
 このような作品のキーワードの抽出によっても明らかなように、求めんとして得られない影を、ひたすら求めて眺望する。そしてその求めんとする対象は幻影にすぎないのである。従って、憂鬱はしだいに広がって行き、その状況をただ詠嘆するのである。
 朔太郎が好きだと言う暮鳥の詩「ランプ」は「詩歌」(大正六 五)、「春」は「詩歌」(大正六 四)、「荷車の詩」は「感情」(大正六 九)、「海の詩」は「第三帝国」(大正六 八)、「秋ぐち」は「感情」(大正六 十)、「この世界のはじめもこんなであつたか」は「感情」(大正六 九)、「妹におくる」は「短歌雑誌」(大正七 五)、「記憶の樹木」は「詩歌」(大正六 一)にそれぞれ掲載されたものであるが、これらは朔太郎の『青猫』前派の時期とかさなっている。

   春
 どこかで紙鳶のうなりがする
 子どもらの耳は敏く
 青空はひさしぶりでおもひだされた
 いままで凍てついてゐたような頑固な手もほんのりと赤味をさし
 どことなく何とはなしににぎやかだ
 どこかで紙鳶のうなりがする
 それときいてひとびとは
 ああ春がきたなと思ふ
 そして何か見つけるやうな目付で
 水水しい青空をみあげる
  てんでに紙鳶を田圃にもちだす子どもら
 やがてあちらでもこちらでもあがるその紙鳶
 それと一しょに段段と
 子どもらの足も地べたを離れるんだ

   荷車の詩
 日向に一台の荷車がある
 だれもゐない
 ひつそりとしてゐる
 木には木の実がまつ青である
 荷車はぐつたりとつかれてゐるのだ
 そしてどんよりした低気圧を感じてゐるのだ
 路上には濃い紫の木木の影
 その重苦しい影をなげだした荷車

  海の詩
 どんよりした海の感情
 砂山にひきあげられた船船
 波間でひどく揺られてゐるのもある
 はるか遠方の沖から
 こちらをさしてむくむくともりあがり
  押しよせてくる海の感情
 何処からくるのか
 この憂鬱な波のうねりは
 そこのしれないふかさをもつて
 この大きな力はよ
 ああ海は生きてゐる
 夜昼絶えず
 なぎさにくだける此の波波のすばらしさ
 そこにすむ漁師らを思へ

 一例を上げたがこれらの奥底に一貫して流れているものは、「どこかで紙鳶のうなりがする それときいてひとびとは ああ春がきたなと思ふ」(「春」)に見られるような、凍てついた冬から春を待ち焦がれる心や、海の生命力や力に憧れる心情である。 これらは暮鳥の再生や黎明(注4)を強く希求する内面の表象に外ならないのであるが、これを朔太郎が「強い心を得んと願ふ弱い心の祈祷である」と見る時、それは「私の過去は一言で言へば「信仰なきものの信仰を求めんとする苦悩」(大正六年十一月高橋元吉宛)という己れ自身にオーバーラップさせているのである。一方、「野中にさみしい一軒家 あたりはもう薄暗く つめたく」(「ランプ」)「冬の日は寂しく暗く」(「記憶の樹木」)、「そしてどこへ行かうとするのか そのあしもとから曳くたよりない陰影」(「秋ぐち」)、「どんよりとした海の感情 憂鬱な波のうねり」(「海の詩」)、「憂鬱な麦畑のうつくしさ むぎのはたけをみていると 自分にせまる人間の情欲」(「麦畑」)、「ぐつたりとつかれている 重苦しい影をなげだした荷車」(「荷車の詩」)などが内包している寂寥感や憂鬱な情感は朔太郎の心情と重なる要素を多分に秘めている。したがって、こう言う詩篇に朔太郎が好意を寄せるのは当然と言えば当然のことである。いやそればかりではなく、両者に見られる「憂愁」「陰影」「憂鬱」等の詩語はどちらかと言えば相互影響の感が極めて強いとも言えるのである。
 村上一郎氏は(注5)『萩原朔太郎ノート』の「暮鳥の影」で「萩原朔太郎が山村暮鳥から学んだのは、ひと口にいっていったい何か?―と、私は久しく考え込んでいた。今もって精確には判っていない。ただ異端者的熱祈のごときものではあるまいか」と述べている。 これは、『聖三稜玻璃』の『月に吠える』への影響を指摘したものであり、まことに示唆に富む見解である。氏はさらに「朔太郎は、暮鳥の『風は草木にささやいた』以後になると、独創を失ってゆくと評した。 (中略)しかし、右のように朔太郎がいったのは、大正の末暮鳥が死んでしまい、自分はもう誰からも学ぶことない一家をなしてから顧みて言ったのだから、いわば死人に口なしで、好きなように言えるのであって、『風は草木にささやいた』の発刊時、そこにある「憂鬱な大起重機の詩」のごときは、朔太郎の学んだであろう諸要素をひそめていた、と私は考える。」と具体的作品を上げている。 「死人に口なし」という言い方は村上ならではの、かなりえぐった言い方であるが、相手かまわずこれだと思えば貪欲に自分の中に取り込んでゆく朔太郎、 当時は暮鳥以外に大手拓次からの影響もあることは既に安藤靖彦氏(注6)が実証しているが、そう言う朔太郎を見抜いての発言である。「憂鬱な大起重機の詩」にみられる

  怖ろしいやうな日和だ
  蟻のやうに小さく
  大きな重いものの取り去られたところに群がって
  うようようごめいてゐる人々
  大起重機のたしかな力をみろ
  この大波のやうな運動を
  その大きな沈黙を
  ああ大起重機の憂鬱

などは自然、特に人工による機械工学文明に対する暮鳥の逆説的な抵抗である。つまりここでは「大起重機のたしかな力」を認めながら、この後に続く「この大起重機にその怪力を認めた瞬間から まつたく憐れな奴隷となつた」と言う行によって、この詩は人間性を喪失させる対象と自己の心との格闘によってもたらされた憂鬱を表出したものであることが明らかで、『風は草木にささやいた』の中でも、特に光芒を放つ詩篇である。このような作品を朔太郎が見逃す筈はない。「憂鬱な大起重機の詩」は「感情」(大正六 三)誌上に掲載されているから朔太郎がその時点で既に気が付いていた筈である。因に、その一月後の五月の「感情」に朔太郎は「朔太郎の感想」を載せ、「白鳥省吾君の最近の詩の傾向は山村暮鳥君のと、共に、私が最も多くの興味と期待とを持って見て居る」と書いているくらいである。そして、精神の内奥の表象としての「憂鬱」と言う語の使用は暮鳥の「憂鬱な大起重機の詩」が早く、他にも「朝朝のスープ」(「詩歌」大正六 三)で「憂鬱にしてきた」、「耳をもつ者に聞かせる詩」(「感情」大正六 四)でも「憂鬱な力」等の使用がある。朔太郎の「蝿の唱歌」「恐ろしく憂鬱なる」が共に「感情」五月の掲載であることを考慮に入れると「憂鬱な大起重機の詩」の存在の意味は大きい。その上、「蝿の唄歌」(「感情」初出)では「憂鬱の日かげ」は「憂愁の日かげ」であったわけで、「憂鬱」の詩語が朔太郎に定着するのは六月以降から七年まで待たねばならなかった。なお、人間性を抑圧し、喪失させ、憂鬱にさせるイメージの具象としての「起重機」は『青猫』後半期の「憂鬱な風景」の「さうして荷揚げ機械のぼうぜんとしてゐる海角から いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた」に生かされてはいないだろうか。
 さらに、付け加えるならば

  むくむくと肥えふとつて
  白くくびれてゐるふしぎな球形の現像よ
       (「さびしい来歴」大正十一 六)
  そのうへ帆船には綿が積まれて
  それが沖の方でむくむくと考えこんでゐるではないか。
       (「憂鬱な風景」)
の「むくむくと肥えふとつて」とか「むくむくと考えこんで」と言う詩句は『風は草木にささやいた』で既に暮鳥が
  人形のやうな目のぱつちりしたあかんぼに
  むくむくと膨れた乳房が吸はせてみたくはないか
          (「耳を持つ者に聞かせる詩」大正六 四)
  今朝みると
  むくむくと肥え太り
  それがなみなみと力を漲らしてゐる
          (「ひとりごと」大正六 四)
  はるか遠方の沖から
  こちらをさしてむくむくともりあがり
  押しよせてくる海の感情
          (「海の詩」大正六 八)
  雨あがり
  しつとりしめり
  むくむくと肥え太り
  もりあがり
                   (「万物節」大正七 二)

と多用している。両者の詩的イメージは朔太郎のそれは、雲や綿の柔らかいふくらみで、暮鳥のそれは、肥沃な大地や波、乳房の感覚であって、多少異なってはいるが、朔太郎は大正六年五月の「感情」の「朔太郎の感想」の中で
 散文詩なら兎に角、叙情詩となると一層漢字を排斥する必要が多い。何故かといふに漢字は日本語の正当な発音を害しその二つ以上の言葉の綴りのもつリズムの微妙な動作を表現することができないからである。たとへば「いちめん」と書くのと「一面」と書くのとでは言葉の発声からくるリズムの強弱がたいへんちがふ、前者は一語一語の綴り合せ、その母音と母音との重復、音と音との関係がはつきりと響いてくるに反して、後者はそれらの音楽や言葉の陰影が極めて不鮮明である。(中略)私の詩の「恐ろしく憂鬱なる」中の言葉「てふてふ」でも矢張そうである。これを漢字で「蝶蝶」と書くと「チョーチョ−」と発音されてしまふからこの場合では詩の効果が薄くなる。ここでは是非とも「て、ふ、て、ふ」と一語一語はつきり発音しなければならぬ。蝶のあの薄つぺらな弱々しい羽をうごかして重たい空気を撃つときのいたましい肉体的感覚とそのへなへなした軽い動作の印象が此の四つの言葉の発音から及その綴りのもつリズムから感知される。
と書いている。「いちめん」を例に上げているが、暮鳥の『聖三稜玻璃』中の「風景」の「いちめんのなのはな」を念頭に置いていることは既に久保忠夫氏(注7)の指摘がある。仮名の一語一語のもつ響きと感覚的効果を重視していることは明らかである。このことは、白鳥省吾宛書簡(大正六 十二 一四)でも暮鳥の詩における言葉をめぐって「「言葉の新しい美」を捉むことによつて成りあがつたものです。言はばあの人の詩は「言葉のにほひ」が一切の生命となつてゐるのです」と解説している。つまり、朔太郎は言葉の「感覚上の美感」に共鳴しているので、「む、く、む、く、」と言う仮名の一語一語の持つ響きと視覚的効果に魅せられ、取り入れたものと考えられる。
 さて、長男の死、『聖三稜玻璃』の悪評、卒倒という災禍に加え、暮鳥を襲ったのは結核という病魔であった。医師に再三転地療養を勧められるが、教会での伝道と詩作に専念する。その結果大正七年九月二十八日、大喀血に見舞われることになり、十二月二日、千葉県北条町に転地をよぎなくされる。その上妻子を抱えての貧困に苦しむ。この間の暮鳥の事情を朔太郎は、「そんなにも悪い状態にあつたのかだがそれは、勿論、肉体上の不幸ばかりではないでせう。むしろもつとひどいもの樒神上、生活上の難題もあつたのでせう」と看破している。『風は草木にささやいた』は詩人としての四面楚歌からの脱出、病魔と貧困の超克と言う、まさに奈落の底から起死回生を希求する、再生への悲願の声であった。この主題を朔太郎は、「苦々しき背景をもてる黎明である」と言い、さらに「この趣味の変化こそ、取りも直さず「人間としての歴史」若しくはその哲学に於ける中心思想を語るものである」といみじくも指摘している。だから、朔太郎は、白鳥省吾宛前記書簡で過去の暮鳥の卓上芸術を厳しく批判しながら「今の山村君は別です」と言うのである。
 暮鳥は奈落の底にあって再起への思想的よりどころを古代印度農耕民族の祈祷書とでも言うべき『ヴエーダ』や『ウパニシャット』等の印度文典に求めた。そして、自らの生活の在りようを「私は百姓をはじめます。土地すでに借りました。私は草木のやうに生きやうとしている(中略)自然に食い込んできたのですね。ああ ありがたい。」(大六 七 本井商洋宛)と書いて自然に求めた。要するに理想の生活の内的、外的方途として、自然を獲得しえたのである。
 『聖三稜玻璃』の自然は、周知の如く暮鳥の内部の幻影、つまり内在的な自然であったわけであるが、「自然に食い込んできた」と言う時、それは外在的世界としての自然を意味していた筈だ。朔太郎は、この点に特に注目して「一言にして言へば「懐に自然をあたためる人」であつた。そして今の兄は自然をそれ自身の位置に置いて眺める人である」と言い、「今や、兄は卓上の生物を捨てて、雪と霙に吹きさらされた裸形の自然を眺め、プリズムを捨てて、炎天の野原に太陽の光を浴びやうとする」と書いている。まさにそのことが『風は草木にささやいた』の詩篇を自然の豊饒と再生への賛歌として特色づけるものになっているのであるが。

   一日のはじめに於て
  みろ
  太陽はいま世界のはてから上るところだ
  此の朝霧の街と家家
  此の朝あけの鋭い光線
  まづ木木の梢のてつぺんからして
  新鮮な意識をあたへる
  みづみづしい空よ

   其処に何がある
  足もとの地面をみつめてかんがへてばかりゐる人間のこしは早くまがる
  いたづらに嘆き悲しんではならない
  兄弟よ
  あたまの上には何があるか
  樹木のやうに真直立て
  そして垂れた頭をふりあげて高く見上げろ
  そこに何がある
  この大きな青空はどうだ

   万物節
  雨あがり
  しつとりしめり
  むくむくと肥え太り
  もりあがり
  百姓の手からこぼれる種子をまつ大地
  十分によく寝てめざめたやうな大地
  からりと晴れた蒼空
  雲雀でも啼きさうな日だ
  いい季節になつた
  穀倉のすみつこでは
  穀物のふくろの種子もさへづるだらう
  とびだせ
  とびだせ
  虫けらも人間も
  みんな此の光の中へ
  みんな太陽の下にあつまれ

   郊外にて
  赭土の痩せた山ぎの畑地土で
  みすぼらしい麦ぼが風に揺られていた
  わたしはすこし飢えてゐる
  わたしは何かをもとめてゐる
  麦ぼの上をとほつてどこへ行くのか
  そよ風よ
  みどり濃く色づいた風よ

に見られる自然に対する交感は、まさに朔太郎の言う「炎天の野原に太陽の光を浴びやうとする」ものに外ならない。『風は草木にささやいた』詩篇の特長は、精神の内奥に苦悩を宿しながら、それでいて、いや、それゆえにかえって日向的に自然へはたらきかけている点である。恐らく、朔太郎は内に苦悩を秘めながら自然と交感する作品に強くひかれたのであろう。この暮鳥の内的世界として幻影の自然から、外在としての自然の向日的表象と言う変化を朔太郎は、極めて強い感動をもって受け止めているのである。
 当時の朔太郎の「孤独と瞑想」「厭世的になり益々悲観的になってゐる。しかも遂に何物をも掴むことができない」でいる内実から考えると上記のことは容易に首肯できるところのものである。それがかえって逆に、『聖三稜玻璃』から『風は草木にささやいた』への展開を「プリズムを捨てて、炎天の野原に太陽の光を浴びようとする」変化であるとして強い共感を示すことになるのである。内部世界のみに自然をひたすら培養させていた朔太郎にとって、暮鳥の心の内奥の幻影としての自然から、外なる自然の表象というドラマチックな変容は、一つの大きな発見であったと言ってけっして言いすぎではなかろう。
北川冬彦は「萩原朔太郎集解説」(日本近代文学大系37 角川書店)で『青猫』詩篇に見られる「ノルマルな健康な精神状態」の由来を山村暮鳥の影響ではないかと推測しているが、まさに当を得た見解であると言ってしかるべきであろう。北川の示唆を受けて岡井隆氏も「『青猫』論」(「国文学」平成元 六)の中で「暮鳥の影響などというのは、実作者以外は重視しないかもしれないがこれが意外に重要でしかも、かくされた詩作の動機であることも多い、それに、こういう話は本人はまず、言わないのであるから、わかりにくい」と述べている。北川が例示した「野原に寝る」(大正六 六「秀才文壇」)における、のびのびとした精神と草木の伸長の表出には健康な「いのちの芽生」が認められるし、又「天候と思想」の「自然は明るく小奇麗でせいせいとして/そのうへにも匂ひがあった」や「囀鳥」(大正十 十「日本詩人」)の「天気はさつぱりと晴れて/赤松の梢にたかく囀鳥の騒ぐをみた」にみられる外在的自然の向日的な掴み方には間違いなく山村暮鳥の『風は草木にささやいた』の影響があると考えられる。
 暮鳥は希求の対象を獲得した。しかし大正八年当時の朔太郎は「さがしてゐた者の獲得といふ体験がない」と書く。この大きな落差が、朔太郎をして「「風は草木にささやいた」は自分にすぎた贈物であつた」と言わしめる。従って、『風は草木にささやいた』は朔太郎にとって、まさに「反対の傾向にある」詩集であった。それが、反転してかえって詩集の深い理解を可能にし「歓喜」したとも言えるのである。この『風は草木にささやいた』体験による大きな落差の自己内部における認識は、かつての「生甲斐のある生活」を求め、ロマンチックな人生憧憬とその獲得不能を嘆いた詠嘆的情感を昇華させることなく、逆に脱落させる方向に推し進めた。つまり人生喪失の無力感やニヒルな虚脱感、虚無感を自己内部で増殖させる結果を招いたものと考えられる。こういう『風は草木にささやいた』体験の衝撃こそ『青猫』後半期作品の色調造型の遠因の一つであったと考えることも可能であろう。
 だが、そればかりではなく、ここで、もう一つ注目すべき点は「近来の詩壇に於ける兄の新運動は、影ながら自分を悦ばせ、自分に力と光をあたへた」とあることである。礼状であることを考慮にいれても、これは『風は草木にささやいた』詩篇が朔太郎の内面に大きく作用したことを暗示していると見て間違えではなかろう。では朔太郎は『風は草木にささやいた』から何を啓発されたのであろうか。それは、これに続く次のコンテクストが重要である。そこには「聖三稜玻璃と共に、新詩壇の驚異となるものである。」に続いて「それはある意味に於て、明らかに悲壮な歴史である。人間の悲壮な歴史である」とある。既に掲げたが、後の段落でも「人間の生活に於けるさまざまな運命とその不思議な成り行きとを暗示する(中略)人間としての歴史、若しくはその哲学に於ける中心思想を語るものである」とくりかえし述べている。
 当時の朔太郎の表出意識が、繰り返して言うが前掲の作品に見られるように、現時点での憧れ、希求、そしてその対象の獲得不能の詠嘆に終始していたことを考えると、暮鳥の来歴が、そこに何程かのインパクトを与えたものと考えて、全く当っていないとは思われない。恐らく、朔太郎は『風は草木にささやいた』体験によって暮鳥の来歴(人間としての歴史)に注視し、そこから自分自身の来歴に思いをめぐらすと言う、内的営為に目覚めたのではなかろうか。因に『青猫』前派の作品では「うづくまる」「求める」「寝ころんでゐる」「もたれてゐる」「みつめる」等、現在進行形が多用されているが、後半期の作品になると「からだも 生活も 悲哀でびしょびしょに濡れてしまつた」(「みじめな街灯」「詩歌」大十一 六)、「なんといふ退屈な人生だらう」(「かなしい囚人」「日本詩人」大十一 六)、「いくつかの季節はすぎ もう憂鬱の桜も白つぽく腐れてしまつた」(「怠惰の暦」)、「身の毛もよだちぞつとするやうな思ひ出ばかりだ」(「憂鬱な風景」「日本詩人」大十一 七)、「ああ 過去の私の鬱陶しい瞑想」(「囀鳥」「日本詩人」大十 十)、「遠く車にゆすられながら行つてしまつた」「そうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが 野鼠のやうに走って行った」(「野鼠」「日本詩人」大十二 五)等に見られるように、過ぎ去った己れの過去をふり返る営為から生まれた悔恨の情と、その表象のための過去形が目立つ。さらに、「さびしい来歴」(「日本詩人」大十一 六)にかなり具体的に表出されているように「なんといふさびしい自分の来歴だらう」と自分の人間としての過去に思いをめぐらすのである。このことは、やがて「青猫以後」詩篇から、「郷土望景詩」へとつながっていくのである。
 最後に、この書簡冒頭部分にある「兄のことは忘れなかつた。兄は室生と共に、私の最初からのよき同志であり、最初からのよき兄弟である」と言うくだりは、大正六年の『感情』以後、ともすれば二人の間には、精神上の乖離があったのではないかとする通説に対する一つの警鐘である。 犀星、朔太郎と暮鳥との関係は人魚詩社以来、雑誌「プリズム」発刊で犀星が発行人になるなどかなり親密であったが、花岡謙二宛書簡(大五 六 二十二)では「室生等を排斥するんです。あんな不良少年等とは仕事はできません」と伝え、土田杏村宛書簡(大六 十 三十)では「自分は「感情」からもう去ります。比較的純だと思ったそれもやつぱり我が与するところでは終にありません。唯もうヂァナリズムの蛆虫です。」と書いている。 暮鳥にしてみれば、犀朔二人に対して多少批判はあったようだ。しかし、この批判は既に触れたがヴェーダやウパニシャット等インド文典への傾倒で自己の生の在り方を自然に求めた暮鳥の内部変革の宣言であったと読み取るべきであり、決定的な乖離を意味するものではない。 朔太郎は白鳥省吾宛書簡(大六 十二 三十一)で暮鳥を擁護しているし、大正十一年には『新しき欲情』(注8)を暮鳥に贈っている。犀星も同年に詩集『忘春詩集』(注9)を贈っている。さらに犀朔二人は暮鳥没後毎年暮鳥忌を営んでいるのであり、その乖離は決定的なものではなかったといってよい。
 以上見てきたように、朔太郎は『月に吠える』で暮鳥の『聖三稜玻璃』の影響を受け、『青猫』にいたっても、詩語の面、そして前期から後期への変容の点からも『風は草木にささやいた』の影を宿していることがわかるのである。この書簡は従来の朔太郎研究で欠落している『青猫』成立時の『風は草木にささやいた』体験の衝撃を余すところなく伝えているとともに、当時の朔太郎の内面を鮮明に写し出している点で資料的価値が極めて高い。

 

注1
補訂版『萩原朔太郎全集』に収録されている暮鳥宛書簡は第十三巻に二通、「補巻」に一通でいずれも雑誌『風景』に「消息」として掲載されたもので必ずしも書簡の全文とは言えない。本書簡はほぼ全文であると考えられる。見出しの「手紙」及び「萩原朔太郎」と言う署名であるが「手紙」は編集上の仮題で、署名は朔太郎は常に書簡の最後にしておりこれも編集者の手によるものである。
注2
『萩原朔太郎詩私解』(昭五十二年六月 小沢書店)による。
注3
『萩原朔太郎の文学』(昭五十六年十一月 桜楓社)による。
注4
詩集『風は草木にささやいた』について積極的に考察した論考には杉浦静「卒倒とドストエフスキイ」(「近代文学論」昭和五十七年六月)と稿者の「穀物畠の幻想」(「国文学研究」昭和五十九年三月)がある。
注5
昭和五十年九月国文社発行で示唆に富む論考が多い。
注6
「青猫スタイル」覚え書(昭和四十六年一月『萩原朔太郎 日本文学研究資料叢書』有精堂)で詳細に論じている。
注7
『萩原朔太郎論下』(平成元年六月 塙書房)の「てふ、てふ、てふ、―朔太郎の詩と漢字」
注8
大正十一年五月一日付萩原朔太郎宛暮鳥書簡に「「新しき欲情」のやうな独特なものがどこに求められやうこれが驚異に価しないとすれば 自分は病室よりはるかに大兄の気味悪いちんもくを感じてゐた なにかしているだが詩をかいてゐるのではないとかんじてゐた果たせるかな これだ」と書く。
注9
大正十一年十二月室生犀星宛暮鳥書簡に「本屋の方から「忘春詩集」がおくられました。何といふ気持のいい古雅なものであらふ(中略)その愛児を悼まれるかずかずの詩篇には泣かされた。自分も児を失ったことのある親としてよく同情ができる」と記す。