黒井千次(くろい せんじ)
松 本 鶴 雄
黒井千次という名はペンネームである。本名は長部舜二郎で昭和七年(一九三二年)五月に東京・中野に生まれる。小学校六年のとき長野県の上林温泉に学童疎開したが、戦後帰京し、都立高校に進んだ。その頃友人と同人雑誌を刊行したのだから、文学的出発は早い方だ。当時は戦後文学の全盛期で埴谷雄高、野間宏、椎名麟三たちの影響をもろに受けた世代でもある。東京大学経済学部を卒業、富士重工業に入社し昭和三十年(一九五五年)から四十五年(一九七〇年)までの十五年間勤務した。最初の四年間は伊勢崎市の工場勤務だった。独身寮で時間を作りながら小説を書いた。その時からのペンネームである。
彼は「新日本文学」に入り、昭和三十三年七月に同誌に『青い工場』を発表し、続いて「文学界」に「メカニズムno・1」を書き作家的出発を果たした。これらの初期作品群には富士重工業の伊勢崎工場が舞台になっている。当時の心境をエッセイ集『仮構と日常』(昭和46年)で次のように述べている。「文学は常にぼくの内部にあって行動の基準であり続けた」。だが「学生の時期を終えて自分で選択した企業の中に身を浸した時、ぼくは突然自己の姿が目の前から消えて行きそうになるのを感じた」。しかしそこからもう一度、文学的自我を再構築するためには企業内の自分を問い直すことだと黒井は考えた。
「ぼくが企業の中に身を置いて、そこから汲み続けて来たのは『素材』ではなくてむしろ人間についての『問題意識』なのだ。大げさに言えば、ぼくを一つの企業に就職させたのもその『問題意識』であるのかも知れない。ぼくにとっての企業とは、自分をも含めて、現代において《生きる》とはいったいどういうことなのかをきわめて日常的な姿で学ぶ場であった。学ぶことは、取材することによってでなく、企業の中の日常を生きることによって得られた。(略)未来を垣間見ることが出来るのではないかと思えるような緊迫した現象が傷口のように赤く口を開いていた」。
そうした意味では富士重工の伊勢崎工場は黒井千次の文学認識を鍛え、彼を自立した作家に育て上げた学校であった。その後の彼は目覚ましかった。『聖産業週間』(昭和43年)が芥川賞候補になり、企業就職を選んだ自分とメーデー事件被告の友人を描いた『時間』(昭和44年)は芸術選奨新人賞になった。その翌年、彼は「二足のワラジをはいているうちに、股がさけそうになった」のを理由に富士重工を退社、作家専業生活になる。しかしその後も『五月巡歴』などで社会的テーマを追求したが、しだいに都会的なマイナーな題材が多くなる。そのあたりに企業から離れた内向の世代らしい後遺症が見えかくれする。