谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)
渡 邉 正 彦
1886(明治19)年7月24日〜1965(昭和40)年7月30日。 小説家。 文化勲章受章。 東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋人形町)で出生。 府立第一中学(現都立日比谷高校)、旧制第一高校卒業、東京帝大国文学科中退。 明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「誕生」「象」「刺青」「少年」「幇間」「颱風」「秘密」などを発表、永井荷風が絶賛したことがきっかけで文壇に登場した。 天才的な文章と評され、悪の力の肯定賛美、倒錯的な肉体の快楽と美をエゴイズッチクに追求する文学で悪魔主義、耽美派、芸術至上主義などと称された。 明治末年から大正にかけて「羮」「悪魔」「お艶殺し」などを発表、大正4年5月、三十歳で十歳年下の石川千代と結婚。 千代は前橋市の小林家の生まれで、母の実家石川家の養女となった。 祖父母の石川夫婦は花柳街で十一屋という酒屋を営み繁盛していたが、店を譲って芸者屋を開いた。 千代も初子と名乗る芸者になったが、大正4年に廃業して上京、向島で料理屋嬉野を経営する元芸者の姉初子のもとに身を寄せた。 谷崎は嬉野に出入りし、豪傑肌で気転のきく姉が気に入り、自らの毒婦もののモデルとするほどだったが、初子の勧めで、従順で貞淑な世話女房タイプの妹千代と結婚した。 千代との間には女子が生まれたが、千代は好みのタイプの女性ではなく、むしろ、義妹せい子を気に入り、自分の好みの女性に育て、愛人関係を持つた。 せい子は「痴人の愛」(大正13)のナオミのモデルで、女優となり、芥川龍之介と親密な交友があり、岡本かの子の出世作「鶴は病みき」には、鵠沼海岸の東家別館にかの子と隣り合わせの部屋に同じく避暑に来ていた芥川のもとにせい子が遊びに来て、芥川と二人でかの子を侮辱するエピソードが描かれている。 今東光、男優岡田時彦などとは愛人関係にあって奔放な女性だった。 「小さな王国」(大正7)は前橋(G県M市)を舞台とする小説で、東京から移住した貧しい小学校教員貝島は力関係が逆転して担任児童たちの作る世界に引き込まれ、錯誤を起こして子供たちの発行する紙幣を現実に使おうとする物語である。 谷崎は夏の暑さを避けてしばしば伊香保の千明旅館で執筆し、母の死(大正6)の知らせも同館で受けた。 11年には萩原朔太郎と家族同士で榛名山に遊び、同館に滞在している。 「伊香保のおもひで」(高木角治郎編『伊香保みやげ』)という随想もある。 千代は後に離婚して佐藤春夫に嫁した。 関東大震災(大正12)後は関西に移住。 西洋文化崇拝から伝統文化とその美に回帰し、古い風俗習慣の残る関西の文化に傾倒するようになり、「蓼食ふ虫」「吉野葛」「芦刈」「春琴抄」「細雪」「夢の浮き橋」「台所太平記」などの傑作小説や評論「陰翳礼賛」を発表、源氏物語の口語訳にも勢力を注いだ。 これらの作品には三番目の妻となった根津松子の存在が濃く影を落としている。 老人の性欲を描いた晩年の作品「鍵」「瘋癲老人日記」も評価が高い。 参考文献:野村尚吾『伝記谷崎潤一郎』(六興出版)など。