上州の文人 塚越停春

平 岡 敏 夫

 新潮社に『新潮日本文学小辞典』の企画があり、そのいくつかの項目執筆を依頼されたのは昭和四十年のころだったろうか。そのなかに「塚越停春」という、これまでどの文学辞典にも入っていなかった人が含まれていた。大学院を出て数年たったばかりの若い研究者に、こういう未知の領域で、行数も10行ばかりという小さい項目を割り当てるのが世の常である。はじめから調査しなければならず、一行いくらという稿料だから、報われることも少ない仕事である。
 たとえば、「森鴎外」の項目は388行で、執筆者はドイツ文学者・鴎外研究家・横綱審議会委員で知られた高橋義孝氏となっているが、新しい調査などしなくても原稿は書ける。稿料は約40倍である。稿料はともかく、この行数が塚越停春と森鴎外の文学史的評価を示している。この評価は絶対的なものではなく、時代とともに変動する相対的なものにすぎないが、鴎外は不動としても停春は今はどうだろう。
 塚越停春とは何者であるか。どの辞典にも記載されていない人をどうやって探すのか。昭和十二年に刊行された『明治文学書目』(村上文庫)に「塚越停春」の名が出ていて、「上州安中の人」とあった。それを唯一の手がかりとして、昭和四十一年夏、安中をめざした。運転免許を取ってわずか二ヵ月の単独運転であった。安中市役所はたいへん協力的で戸籍簿をいっぱいひろげてくれたが、「新島七五三太(襄)、米国留学中」というのは見つかっても塚越停春は見つからなかった。明冶最初の個人詩集『十二の石塚』(明治18)を出した湯浅半月の湯浅家や安中教会を尋ねたりしているうちにであったか、塚越停春は榛名山麓の倉渕村出身らしいということになったが、日も暮れてきて、知らぬ山道は運転がおぼつかない。磯部温泉の詩人大手拓次の実家の旅館に泊ることにした。
 あとで子孫は埼玉県川口市にいるということがわかり、法事で親族が集まる日に、当時の重いテープレコーダー持参で訪ねたが、その記録は、いまだに家のどこかに眠ったままである。自由民権運動に加わり、キリスト教の影響も受け、恋愛を体験し、文学の道に進む。今年百回忌を迎えた北村透谷ともよく似たコースだ。透谷よりも四歳年長で、満二十五歳で自死した透谷よりはるかのちの昭和二十二年、八十三歳で没している。本名芳太郎、停春楼とも号したが、徳富蘇峰の民友社に入杜したことが大きな節目になっている。民友社は、明治二十年代の総合雑誌「国民之友」や「国民新聞」を出していたので、停春は評論、新体詩などを発表、民友社シリーズ「十二の文豪」では、近松門左衛門、柿本人麻呂、滝沢馬琴を担当した。民友社を出てからは東京市長尾崎行雄から東京市史編纂を依頼され、主任嘱託として『東京市史稿』等全七五巻を完成させた。
 新潮社のこの小辞典は増補改訂されたが、塚越停春の項はそのままである。その後講談社から出た別な辞典では停春は61行になり、鴎外は565行となっている。40倍が10倍になったわけだ。停春の郷里の烏渕村、今は合併しての倉渕村を、いつか訪ねてみたいと思っている。(「上州文化」55号 1993.8.25)