国定忠冶の墓

平 岡 敏 夫

 群馬に勤務するようになって五年目、やっと国定忠治の墓を訪れることができた。忠冶の墓への関心は一にかかって群馬の詩人萩原朔太郎の詩「国定忠冶の墓」(昭8)から受けた一種えたいの知れない印象から来ている。昔読んだときの記憶が忘れがたく心に残っているのである。
 わがこの村に来りし時
 上州の蚕すでに終りて
 農家みな冬の閾を閉したり。
 太陽は埃に暗く
 悽而たる竹藪の影
 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
 見よ此処に無用の石
 路傍の笹の風に吹かれて
 無頼の眠りたる墓は立てり。
 二連からなるその第一連だが、朔太郎の詩篇小解では「昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐えず。ひそかに家を脱して自転車に乗り、烈風の砂礫を突いて国定村に至る。忠冶の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるえて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。我れ此所を低徊して、始めて更に上州の粛殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。」とある。
 昭和五年冬からすでに六十五年、平成八年夏、伊勢崎地方は三十九度という、おどろくべき猛暑の中に国定忠治の墓はあった。東京・雑司ヶ谷墓地の鬼あざみ清吉の墓、両国・回向院の鼠小僧次郎吉の墓などと同様に、忠治の墓も角が欠かれており、鉄柵で囲まれていて、未だに牢獄の中にいるかのようだった。埃に暗い太陽とはちがって、晴天の灼熱の太陽のもと、忠治の存在は明らかすぎるほど明らかにみえるはずだった。
 すぐそばに「長岡忠治の墓」と刻まれた大きな石碑が立っている。朔太郎は「一塊の土塚」と言い、「無用の石」と言う。少なくともこの大きな建碑は立っていなかったろう。現在の群馬県佐波郡東村国定の養寿寺に忠治の墓はあるのだが、ここへ来る途中、東海林太郎の赤城山の唄などで知られる勘助・勘太郎の新しい碑や解説碑が新しく建造されているのを見た。村起こし町起こしの波の中で蘇ったものらしいが、それにくらべれば、忠治の墓碑は、真夏の太陽の下でますます黒ずんでみえた。「人生の貧しき惨苦を感ずる」までにはいかなかったが、「無頼の眠りたる墓」であるにはちがいなかった。
 久保忠夫氏は、「国定忠治の墓」にうたわれている景はすでに昭和二年発表の「或る詩人の生活記録」に描かれているとし、父の病を看護して故郷にあったとき国定村を訪れたかどうかはさほど問題ではなかった。要はそれまでの経験の中から、妻に出奔されさらに父の病篤く「人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へ」ざる情を形象化するのに格好なものをとり出すことにあったと述べている(『萩原朔太郎論』下)。当時の朔太郎の心情によって忠治の墓は染められているわけだが、六十五年前の冬の「赤く力のない太陽」とちがって、強力な夏の白日の下では、すべては明らかのように思われたが、はたしてそうか。
 忠治の名を持つ親友が癌で死去したとき、ゼミの学生は「忠治」の二字を染め抜いたはん天を着用して師の葬儀で働いた。亡友の父親は大工の棟梁で国定忠治びいき故に一人息子を忠治と名づけた。忠治でなければ学生もはん天を作らなかったろう。私のえたいの知れない印象はまだまだこれからも残るだろう。(「愛と自由」121号 1996.11.1)