石碑に「侠気」を見る

常福寺境内の「医師大河原君碑」
石碑は文書史料を補う役割を果たすものであり、人物碑の場合は偉人を顕彰するものが多いが、一方では史書から漏れる在野の人を後世に伝え、さらにはその建立に関わった人々の思いをも不朽にする。
榛名町上里見の常福寺の境内の片隅にちょうど百年前の明治三十七(一九〇四)年と記された「医師大河原君碑」が樹々に囲まれてひっそりと立つ。医師は群馬県人の持つ「侠気」のうちの良き側面すなわち義侠の心を一世紀も前に国際的な視野から発揮しようと志し、その業半ばに客死した。すなわち当時医学の世界にあってハンセン病を最も悲惨な病であると考え、特にハワイでは患者が多いことから渡航して療法を研究することを志し、その地で多くの名医に就いて研鑽して開業し盛況を究めた。しかしそれに満足することなくさらなる研究の意志を固めて夫妻でアメリカに出向くことにし、そのとき搭乗した汽船が座礁して沈没したが、夫妻はともに取り乱すことなく端座して死に臨んだという。
この訃報に接した友人達もこれまた「侠気」をもって、医学に対する使命感を高く維持しつつも遭難して果てた医師の無念さを思い遣り、その顕彰をとわに伝えるべく当代の一流の撰文者と書者とを求めて奔走した。すなわち碑文は、当時漢学の世界のみならず文学においても高名を馳せ、森鴎外が漢文の手ほどきを受けるべく師事し、その作品である『ヰタ・セクスアリス』にも文淵先生として登場する依田百川が担い、書はその称え方に関して諸説はあるがいわゆる明治の三筆に数えられ、また童話作家として著名な巌谷小波の父としても知られる巌谷修であり、篆額は維新の元勲の一人でもある伯爵土方久元である。実に友人達の医師に対する深い思いと遠い慮りとがこうした屈指の取り合わせによる漢文碑を実現させ、現在にいたるまで確かにその価値を減ずることなく伝えている。ちなみにこの三者による県内の漢文碑には館林市三の丸に立つ「城沼墾田之碑」がある。(県立女子大学教授)
はまぐち・ふじお 東京都出身。大東文化大卒。東京教育大大学院修士課程、大東文化大学大学院博士課程。博士(文学・筑波大学)。秋田大学助教授を経て、県立女子大学へ。中国古典学専攻。現在、同大教授。著書に「清代考拠学の思想史的研究」など。