亡き子を偲ぶ碑
濱口富士雄

左、桐生天満宮・川嶋桐華碑。右、高崎長松寺・吉村伝次郎墓碑。
子が親に先だって亡くなり、親がその供養をするいわゆる逆縁の悲しみは推し量ることができないものがあろう。したがって仏典の中でも、赤子を亡くした若き母キサー・ゴータミーの深い悲しみをブッダが救済する話は広く知られている。この逆縁を石に刻むことによって悲苦のいくぶんかを癒したであろう漢文碑が桐生と高崎とにあり、期待の大きかった亡き子への思いが強く偲ばれる。
桐生市の天満宮の境内に川嶋桐華
の万延二年の碑がある。桐華は幼くして絵画の才能を現し、父がその才を認めて勉強させたところ、鳥獣の精密な写生に長じた。そして自らも画才を自負し、中国の宋代の花鳥画に大きな影響を与えた
黄筌
や花果・草虫画で著名な
趙昌
にも比肩するとの思いを持って天満宮の道真公に「どうか黄筌や趙昌だけに名声を独り占めさせない下ださい」と念じたほどであったが、わずか二十五歳でその大志はくじかれることになった。この息子桐華の碑文のために父は当時の著名な漢学者鷲津毅堂に撰文を、そして名筆として名のあった永井盤谷に書を依頼したのである。鷲津毅堂は尾張藩校の明倫館の督学ともなった儒者で、永井荷風の母方の祖父に当たる。そして毅堂は画才を開花させることなく逝った桐華に対して「天
若
し之に年歯を
仮
さば、
造詣
いまだ測る可からざるもの有らん」と嘆いたのであった。
また高崎市の長松寺の墓域には、十七歳で夭折
した吉村伝次郎の明治二十四年の墓碑がある。家業である染色業を継ぎ、緋色の絶品は京都の
鴨川
でさらしたもの以外は無いとされていた当時において、日々の
研鑽
の結果、父祖の技を超えて京の緋色にも劣らない発色を可能とする染色法を産み出し、計り知れない益を後世にもたらしたのであるが、肺病におかされてしまった。そしてその才を秘めたままの短命に対する嘆きはやはり「
設令
之に
天寿
を仮して以て材能を
暢発
せしむれば、則ちその
成蹟
果していかならんや」という語とならざるを得なかった。(県立女子大学教授)
はまぐち・ふじお 東京都出身。大東文化大卒。東京教育大大学院修士課程、大東文化大学大学院博士課程。博士(文学・筑波大学)。秋田大学助教授を経て、県立女子大学へ。中国古典学専攻。現在、同大教授。著書に「清代考拠学の思想史的研究」など。