No.24.

今、私の愛読書

国文学科・教授/篠木れい子

 最近、視力がとみに衰え、細かな文字がぎっしり詰まった辞書類を見るのが苦労になった。しかし、その苦労に耐えても、今、各時代の国語辞典や各地域の方言語彙辞典を見るのが、と言うよりは「読む」のが面白くてならない。顧みると、これほど面白いと思うようになったのは、群馬の方言ヤキモチとの出会いによって複合語の魅力にとりつかれてから、そしてある国語辞典の改訂版の仕事に係わっていくつかの項目の語誌を担当してからのことのようだ。いずれも、語彙は生活文化と深く結び付いているということ、語彙はまさに生活者の認識や感性のありようを語っているのだということを実感させてくるものであった。
 さて、私たちは新しい<もの>や<こと>に出会った時、その多くの場合、既に知っているモノやコトの中から類似したものを捜しだし、その枠の中に取り込んで認識しているようだ。手持ちの語を組み合わせて新たな<もの>や<こと>に対処している、と言ってもよい。辞書が多数の複合語で埋められていることも、この考えを支持しよう。新たなもの一々にそれ専用の単純語を造り与えては、いくら人間の言語能力が素晴らしいとはいえ、膨大な語彙を記憶し活用することは大変なこと。また、そうなってはことばはことばとしての働きをなさなくなるだろう。
 このような考えに立ち複合語誕生の時に思いを馳せて辞書を見ると、見出し語に続く説明文がではなく、静止していたその語自身がにわかにうごめきだし、生活世界を語りはじめる。新たな<もの>を既知のモノに見なしたものの、従来のモノとはどのような点が異なっていると感じたのか―これは人びとにとっての既知のモノやコトの内容を知る手掛かりとなる―。新たな<もの>を見てあるいはそれに触れてどのようなモノを連想したのか。私の常識を棚上げしてその語りに心を向けると、私たちの祖先の生活、また私たち自身の今の生活の中に古より営々と生き続けている私たち日本人の見立ての世界・比喩の世界が、その姿を現してくる。私たちが紡ぎだすことばのからくりが少し見えてきたような気がする。私たちにとっては単純語である語も、かつては複合語であったものが少なくない。左右に並んでいる多くの語の中から同じ音節の連なりを有している語を探しだし、語源探索の楽しみを味わうこともしばしばである。
 今、辞書は、独り驚嘆したり納得したり、ときめきの旅をもたらす私の愛読書である。

歩こう

美学美術史学科・教授/榊原 悟

 この大学に赴任して早くも二ヶ月が経つ。慌しい毎日を送っているが、ようやく心に多少のゆとりが出てきたのか、五月の最後の水曜日、大学から新町の駅まで歩いてみた。途中の八坂神社に芭蕉の句碑が建っていることを知って以来、一度は歩いてみたいと思っていたが、ようやく実行したわけだ。当日は快晴で、日射しも強く、日除けの帽子が欲しいほどであった。所用時間はおよそ五十分弱。駅に着くころには、軽く汗ばんでいた。だが久しぶりに何も考えず、頭のなかを空っぽにして歩いたことは、まことに心地よい。時おり生け垣に植えられた薔薇の花の香りがあたりをつつむ。麦秋の黄金色がこんなにも美しく、ニュアンスに富んだものであったとは、正直なところ驚きであった。が、それにも増してよかったことは、町の表情が、いつもの通勤のバスからの眺めとは一変していたことである。バスの窓を流れる町は、単に大学までに通過する景色に過ぎなかった。これに愛情がわくはずもない。だが自らの足で歩いて、自分の眼の高さから眺めた町はいかにも親しげだ。生きている。烏川の流れはまことに豊かだ。八坂神社の先、表通りから入ったところにお寺を見つけることもできた。喫茶店がある。自家製のパン屋がある。本屋と花屋がある。そして赤ちょうちんも確かにあった。新町の屋並みが急に身近になったような気がするのだ。いつか折をみて、キャンパスのまわりと玉村町も歩いてみることにしよう。そのとき町はどんな表情を見せてくれるだろうか。いまから楽しみだ。

私の読書

大学院英文学専攻/中村真美

 年齢と共に感動しにくくなっている。映像や音声で肉体的にせまってくれればココロ動かされることもあるが、文字だけでは動けない。徒らながらもここまで生きてきた人生経験が行間に「なんでもありの人生」を読み込んでしまうのかもしれない。それでも、ひとつの分野に集中して精神を活動させていると作業終了の合図として文字が読みたくなる。特に英文ばかり見ていた後には漢字が一杯詰まったものが読みたくなる(漢文では詰まり過ぎ)。そういう時に手に取ったのが森鴎外の『舞姫』であった。 
 大雑把なあらすじと結末は知っていたし、もとよりココロ動かされることなど念頭になかった。それなのに、それは突然起こった。最後の一頁であっという間に号泣してしまったのである。現実の世界では一時は芳しい香気ただよう恋愛も永続させていくためには香りを薄めていかなければならないのが宿命であるが、ここでは互いに相手を失うことで「永遠化」し、香気を放ち続けるのである。干からびた心が濡れ尽くすまで泣いてしまった。こんなことでこんなに泣ける自分に感動して、この感性が枯渇しないように契機付けのために、ついでにもう一泣き泣いておいた。
 これに気をよくして最近ではいつでも感動を待ち構えているのであるが、何も知らない客が飛び込んでくるのをもみ手しながら待っているやり手ばばあとどう違うんだろうと考えてしまうこともある。いやいや老いても恋は忘れじ。

English Poetry Full-Text Databaseに期待する

英文学科・助教授/戸所宏之

 ハードウェアとしてのCD-ROM機能の飛躍的な発達によってCD-ROMの供給も飛躍的に増え、CD-ROMは図書の一つとして重要なジャンルをなすようになっている。
 今度、国庫補助図書として請求したEnglish Poetry Full-Text Databaseは5枚のCD−ROMからなり、600年から1900年までに活動した約1250人の英国詩人の詩作品16万5千篇以上を収録したものである。この中には印刷されたテクストではほとんど入手不能の詩人の作品がかなり含まれている。
 これらのCD−ROMは印刷された作品集と同様に目次から作品へとたどって読むことは勿論、任意のキーワードにより、その語句を含む作品を検索し、テクストを表示したり、統計的な資料を収集したりすることが可能である。このキーワードによる検索が文学作品を通史的に眺める新しい視野を開いてくれる。例えば、英詩に現れた'gossamer'(蜘蛛の糸)に関するイメージあるいはメタファー研究をしようとする。研究者は'gossamer'、あるいは、'gossamer'にはいくつかの綴り方があるので例えば'gossam*'で検索する(こういう風に、綴り字の一部で検索するのをワイルドカード検索といい、非常に便利である)。結果はCD−ROMの1〜5巻(あるいはその中の任意の巻)の中で何件の合致(ヒット)があるかが表示されると共に、ヒットしたすべてのテクストが一行ずつ表示される。このような検索方法(condordance機能)は印刷物では不可能であり、電子化されたテクストが拓いた新しい読み方、利用方を示している。このほか、first-line index, title index, author indexによる検索も可能である。
 こういった研究支援のほか、CD−ROMは教員の講義用資料作成を容易にしてくれる。印刷物に頼っていた時代では、作品を紹介しようとする時、直接コピーしたものを配布したり、作品に注釈やコメントを追加したい場合には、教員がテクストをタイプしたものに注記を加え、配布したりしていた。ところが、WindowsとCD−ROMの登場はこの作業をコピーとペーストという操作でいとも簡単にやってのけてくれる。詩作品全体を示したい場合には印刷物からのコピーでもなんとかしのげるが、特定のキーワードが使われている詩の例を時代別にいくつか示したい時などの場合、実際にこういう資料を作成した者なら誰でも分ると思うが、コピーした資料の切り貼りで大変わずらわしい思いをする。こういう資料作成の手間の軽減が講義にもたらすメリットは計り知れない。
 しかし、購入するCD−ROMは2セットのみである。使用するのは教員だけではない。学部学生、大学院生も使う。特に、卒論、修論に教員の論文執筆が重なったりすると、CD−ROMの順番待ちなどという事態が起こる可能性もある。単価が安いCD−ROMなら何セットも購入して提供すれば(もちろん、図書館に何台もコンピューターが備えられていることを前提しての話だが)問題は解決するが、このCD−ROMのように600万円を越えるものには到底望めない解決策である。となるとCD−ROMをネットワークを経由して共有化するしかない。残念ながらわが大学ではネットワーク関係が少し遅れているので、一刻も早く学内LANの導入が行なわれることが望まれる。


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