群馬学確立のための座談会(その1)

開催日

    平成16年7月16日

出席者

  • 今井英雄 氏(群馬地域文化振興会常任理事)
  • 落合延孝 氏(群馬大学教授)
  • 北川和秀 氏(群馬県立女子大学教授)
  • 榊原 悟 氏(群馬県立女子大学教授)

司会

  • 篠木れい子氏(群馬県立女子大学教授)

1.群馬の特質

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篠木:お忙しいなか、お集まりいただき、ありがとうございます。私ども群馬県立女子大学では、いま群馬学の確立をめざしまして、さまざまな活動を行っているところです。本年度は5月の第1回目のシンポジウムをかわきりに、10月、12月と連続3回のシンポジウムを行うことにしています。本日は、各分野の群馬に詳しい先生方にそれぞれの観点から「群馬」について述べていただき、「群馬学」の可能性といったことを探ってまいりたいと存じます。
まず、群馬の歴史に詳しい、今井先生から口火を切っていただきたいのですが、先生は、群馬の特質をどのようにお考えでいらっしゃいますか?

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今井英雄氏

今井:そうですね。私は、群馬の特質、たとえば、ことばが荒いとか、おかみに弱いとかいう特質(笑)は、やはり群馬の風土というものが作り上げたものだと考えています。その風土というのは、雪が降らないとか空っ風が強いとかという気候的な要素はもちろんのことですが、歴史が作ってきた風土というものがあるんじゃないかと思うんです。古代から群馬の歴史をたどってくると、群馬にはきっちりとした領主がいないんですよね。たとえば、古代の上毛野氏は皇族の出身かともいわれますが、その氏族は外からやってきて、強大な勢力を誇りましたが、その本宗家は都に出て行ってしまい、残ったものは郡司になるんですよね。また、平安時代には群馬は親王任国で、この地はずいぶん荒れたようです。

篠木:親王任国というのは?

今井:親王が国の長官、太守といいますが、それに任命された国のことです。ただ、結局、その人々は赴任しないんです。かわりに次官の介がやってくるわけですが、結局治めきれずに、荒れるんですよ。当時は盗賊たちがずいぶんこの地にいたようですね。群馬という地には各時代各時代に他の地域からずいぶんと人々が入ってくるんですね。九州大友氏なんかも、鎌倉時代に沼田地方に入ってきた氏族です。そして、戦国時代は、もう甲斐の武田、越後の上杉、相模の北条といった武将達の草刈り場になってしまいます(笑)。

篠木:次から次へと武将たちが入ってくるのですね。

今井:そう、次から次へとね。それでもその中で生き抜いた人々がいたんです。それが群馬の人々なのです。群馬の人々の特質は、こうした歴史のなかで作り上げられていったと思うのです。

北川:江戸時代の群馬はどうだったのでしょう?

今井:江戸時代は、譜代大名や天領が多く、外様はほとんどいないんですよね。だから、殿様が国元にこないので、悪代官が多いんです。

北川:荒れるんですね(笑)。

今井:そうです(笑)。私は群馬の特質というものは、薩摩のような強力な領主がいないところから形成されたのではないかと考えています。

落合:その通りですね。江戸時代の群馬には大藩がなく、明治44年(1911)の横山健堂「新人国記」には、「上州人は割拠分立の気風殊に盛ん也」と記されています。これは逆に言えば、村に自治が委ねられていたということを示します。各村が警察権や裁判権を保持する自治の仕組みを持っていたのですね。そうしたところから、群馬では、かっちりとまとまった文化ではなく、各地域それぞれの文化が作られていったのではないでしょうか。群馬の特質としての自立性といったものが、こうしたところから考えられるかもしれません。

篠木:落合先生は、地域社会史にお詳しいのですが、任侠の人々が出てくるのも18世紀頃からですか?

落合:寛政10年(1798)に関重嶷という人が書いた「伊勢崎風土記」という書物には、その任侠をはじめ、江戸文化の影響による在地文化の隆盛、それから女性が養蚕製糸業に従事していたことが書かれています。ですから、おそらくそれ以前にすでにそうしたことがあったのだろうと思います。ただ、そうした任侠、あるいは博奕や地芝居などの「ハレ」的な生活文化の創出といってもよいと思いますが、そうした文化は、やはり養蚕生糸が作り出した文化だということができると思います。

篠木:生糸は大きな富をもたらしますからね。

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落合延孝氏

落合:そうですね。先ほどあげた「新人国記」には、「上州の機業は、古来、其の賭博、任侠と並行して、共に其の名を擅にせる也。機屋の中、往々、学者あり、政治家ありて出づ」という文言もあります。養蚕生糸の産業を背景として、在村文化が隆盛していたのですね。弘化2年(1845)3月4日に伊勢崎の柴町入升屋宇市宅で、寺門静軒・橘守部・菊池五山ら江戸の文人たちを招いて「詩歌書画俳諧挿花会」を挙行した時の資料が残っていますが、その時は、伊勢崎町や境町を中心に佐位郡・那波郡・新田郡の町村や高崎町・玉村町などの地域から俳諧・漢詩・書画を嗜む地方文人が約120名参加したことがわかります。

篠木:そうすると、江戸期の群馬はずいぶんと文化的な活動が活発であったということでしょうか。

落合:そういうことになります。そうした生糸の商家では、教育にも熱心で、江戸に子女を学ばせに行かせていたということもあったようです。

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榊原:養蚕生糸を背景とした文化といえば、やはり桐生が大きいですよね。江戸後期には桐生に佐羽淡斎という豪商がいたのですが、この人は江戸の文人との交流が深いんです。文化9年(1812)にこの人の長兄である竹翁が亡くなった時、「惜花集」という追悼集を作るのですが、そこに谷文晁や酒井抱一、鍬形蕙斎といった江戸の画家たちに絵を依頼して描かせています。この佐羽淡斎という人は、単なる商人にとどまらず、そうした文化的な活動をし、しかも江戸の文人とも交流していた、いわゆる文化人なのですね。

北川:文学の方面から言えば、私どもの大学の安保博史教授(近世文学・群馬学シンポジウム第2回パネラー)が、近年、上州俳壇について注目して調査を行っていますが、そうした視座からも江戸と交流による文化圏の形成といったあり方が見えてくるかもしれません。

落合:私は歴史の専門ですから、いま伺った芸術や文学の面からアプローチしていただくと、こちらとしても参考になります。

篠木:分野を超えて、力を合わせてそうした総合的な研究ができるのも「群馬学」の大きな可能性ということになると思っていますが...。

今井:それはおもしろそうですね。

2.上州的なるもの

篠木:私は方言を、それぞれの地域生活のなかで活躍していることばという意味で、地域生活語と呼んでいますが、この地域生活語は、人々が生きる生活世界と不可分の関係にあります。生活語の分布は人々の動きと連動するのですね。そうした意味で、ここ群馬のことばはとても興味深い性質を持っています。特に語彙ですが、全国的にみると、ちょうど東と西のことばが重なっていますし、山間部には江戸ことばがまだ残っています。それは、やはりこの群馬という地が交通の要地であったことが背景にあったと思っています。その交通という点ではいかがですか。

落合:おっしゃる通りだと思います。群馬には、信州と結ぶ中山道・下仁田道、越後を結ぶ三国街道、陸奥を結ぶ会津街道、下野を結ぶ日光例幣使街道などがあって、まさに交通の要衝なのですね。

今井:そう、陸路だけではなく、水路も発達していましたね。私が住んでいる倉賀野にも倉賀野河岸があって、ずいぶん賑わっていたようです。

北川:何を運ぶのですか。

今井:江戸には信州からきた米を積んでいきます。そして帰りはとくに塩を積んできました。それが倉賀野で降ろされて信州方面に輸送されることになります。

北川:まさに、塩の道ですね。

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篠木れい子氏

篠木:その塩の道沿いのことばの分布を調査するとおもしろいわけです。私の調査したところによれば、信州からお米が運ばれてきたわけだから、信州のことばがこちらに流れ込んできているかと思うとそうではないのですね。むしろ、群馬のことばが信州方面に影響を与えている。それは、やはり、人々が江戸の方に関心を向けていたことを示していると思うのです。

落合:ことばはまさに生活世界、あるいは精神世界をはっきりと写しだしているのですね。

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榊原:そうですね。人の動きは、ことばの動きでもあり、さらに文化の動きにつながっていきます。江戸時代の桐生の豪商たちは、江戸に別宅を持っていた可能性もありますし、彼らと交流のあった文人たちも群馬にやってきます。たとえば、江戸時代後期の儒学者であり、詩文などもたしなんだ亀田鵬斎という文人は、本庄からこの地に入り、信州へと抜けています。群馬県立近代美術館の井上コレクションには、その折の山水画が所蔵されていると思います。なお、鵬斎は、先の佐羽淡斎の「惜花帖」にも詩文を寄せています。江戸時代は、とくにそうした江戸との文化的な交流も盛んだったんですね。

篠木:信州の小布施などと状況が似ているかもしれませんね。

榊原:いや、それ以上に活発だったかもしれませんよ(笑)。

篠木:なるほど(笑)。ところで、道は江戸よりもさらに遠くへと続いているわけですが、群馬からもっと遠くに旅だった人々の記録は残っているのでしょうか?

落合:伊勢崎の森村新蔵が天保12年(1841)に北国周遊した旅の記録を「北国見聞記」としてまとめています。それによれば、伊勢崎から水戸を通って松前まで行っています。そこで面白い話があるのですが、津軽で宿の主人が、日本で一番よい国はどこかと聞くのですね。宿の主人は、津軽だと答える。なぜだと聞くと米が安いというのです。そこで上州はどうかという話になるのですが、上州は米が高く、津軽の方が魚や酒も安い、そして上州では生の魚が食べられないと書いてあるのです。その当時の人々のアイデンティティが、日本国ではなくて、上州や津軽にあるということがわかる貴重な資料だと思います。

篠木:地域を知るためには、外からその地域がどう見られるかという視点も重要ですね。

落合:その通りです。外から上州をどう見ていたかという視点も必要ですし、外に出て行った人々が他国をどう見たかという視点も大事ですね。

北川:そのなかで「上州的なるもの」が、まさに浮き彫りになってくるのですね。

篠木:旅に出た時に思い出すのが日常の生活のことというのは、おもしろいですね。何かことばについては語られていませんか?

落合:青森の蕎麦屋では越後と上州と津軽のことばが混じってしまっている人のことが出てきて、その出身が問題になるというような話はあります。また、秋田の宿屋の主人が話す当地のことばのなかに、「関東言葉」の訛があることが話題となっています。

篠木:そうですか。ことばは、やはり、その人の生活世界を負っているのですね。

落合:そうですね。

3.古代の群馬

篠木:北川先生は上代文学の御専門ですが、万葉集には群馬のことがずいぶん詠まれていますね。

北川:そうですね。万葉集の巻十四は、東歌のみを収めた巻で、全体は大きく二つに分けることができます。前半は国名を明らかにした「勘国歌」で、後半は国名を明らかにするに至らなかった「未勘国歌」が収められています。その「勘国歌」のなかは、さらに「雑歌」「相聞歌」「譬喩歌」の三部に分かたれ、それぞれ東海道諸国を都に近い順に、続いて、東山道諸国を都から近い順に、という風に排列してあります。上野国の歌は、相聞歌の部に22首、譬喩歌の部に3首収められていて、その他の異伝を含めると26首が収められているということになります。勘国歌を国別に集計すると、この26首というのは、第1位であり、これに続く相模国の15首、常陸国の12首と比較するとその多さが際だっています。

篠木:どんな歌がありますか?

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北川和秀氏

北川:いろいろありますが、伊香保を詠んだ歌のなかに風と雷が出てきていまして、そのころからすでにそれらのものがこの地の特徴としてあったのかもしれません。

篠木:5月に開催した群馬学連続シンポジウムの基調講演をお願いした森浩一先生(同志社大学名誉教授)によれば、古代の群馬は、とても文字文化の発達したところであったということですね。

北川:確かに、そういうことがいえるのかもしれません。古代の群馬は多くの渡来人が住んでいたところですし、上野三碑もあります。都で発見される木簡のうち、税の荷札として使われたものは、それぞれの地域の人びとが書いていたわけで、そう考えると、古代の人々の文字文化は私たちが考える以上に発達していたとも思います。

榊原:古代の人々はどこまで旅に出かけていたのですか。

北川:防人もありましたから、それを含めると相当遠くまで行っていたと思います。ただその他の人々はどうでしょうか。上野国の防人歌のなかには、妻が「難波まで御無事でいてください」と言ったという歌があります。そこから考えますと、その当時は難波までは知っていたけれど、それより先は知らなかったのではないかと思います。

篠木:古代には海人部の移動もあったんですよね。

今井:そうですね、信州の安曇野がそうであるように、海岸からずいぶん内陸の方に入ってきています。

篠木:そうした海人部の痕跡をたどるのもおもしろいですね。

落合:「裏日本」という語は、明治以降、近代化の進んだ表日本に対して用いられます。それは鉄道が太平洋岸に敷設されてからなんですよね。それ以前は海上交通が盛んでしたから、「裏」なんていう意識は少しもなかったんです。

北川:そうですね。古代を考える場合も、今の私たちの常識をいちど取り払って考える必要があるかもしれませんね。

4.群馬の芸術文化

篠木:榊原先生は、日本美術史を御専攻ですが、芸術文化の観点から「群馬学」にはどのような可能性が考えられますか?

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榊原悟氏

榊原:まず先ほど申し上げた、江戸時代の桐生の豪商と江戸の文人たちとの関係ですね。美術品は、確かに美しさを持つものですが、それと同時に分厚い歴史と文化を背負っているものです。たとえば、桐生に残っている美術品などから、江戸時代における群馬と江戸との交流史といったものを考えることができるかもしれません。そうしたことは、市史などに大きく取り上げられることもありませんでしたしね。それから、これはすでに学生に調べてごらんと言っているものですが、群馬には「生き人形」が二体残っていまして、とても興味を持っています。明治初年のものです。

北川:それはどのようなものですか?

榊原:名前の通り、生きているような人形で、スサノオと白瀧姫とされているものが残っています。写実的な人形で、生々しいものです。スサノオが松本喜三郎、白瀧姫が安本亀八の作。二人とも幕末から明治時代の屈指の生人形師です。

篠木:髪が伸びてきそうな...(笑)。

榊原:ほんとにそうですよ(笑)。

今井:どうしてそんなものが作られたんでしょうか?

榊原:よくわからないのですが、今は御神体として祀られています。あるいは、何か信仰的なものとかかわっているのかもしれません。

落合:作られたのは、やはり江戸時代ですか。

榊原:ええ、そうです。こうした「生き人形」は文化・文政期以降、江戸の見せ物小屋などでよく出されたました。まさに「江戸の業(わざ)」ですね。こうしたものひとつひとつを考えていくことによって、群馬の芸術文化の特性といったものが見えてくるのかもしれないと考えています。

篠木:ことばもそうですが、芸術もやはりその背後には文化を背負っているのですね。それぞれの視座から深め、そしてお互いに手を伸ばし合うことによって、新たな「群馬」が見えてきそうな予感がします。

5.群馬学に期待すること

篠木:それぞれのお立場から興味深いお話を伺って参りましたが、最後にそれぞれの先生に「群馬学」に期待することを一言づつ述べていただきたいと思います。

今井:今日は楽しい話をうかがいました。いろいろな分野で研究している方々がそれぞれの立場から群馬を考え、それを話し合う。そのことで、それぞれの方々が刺激し合い、お互いの研究をさらに進めていく。まさにそうしたあり方こそ「群馬学」というものがめざすものではないでしょうか。そうした意味で、「群馬学」はとても可能性のある学問であると思います。

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落合:いま、日本はどの地域にいっても同じ風景になってしまっています。どこにいっても同じ看板のコンビニ、電気屋、紳士服屋があるというような状態です。「ふるさと」が失われていっているのですね。「群馬学」がそうした地域の個性や特性を発見する、ひとつの契機になればと期待しています。それから私の専門の方からいうなら、先ほどとりあげた「在村文化」の総合的な研究ですね。俳諧などの貴重な資料が残っているのですが、それをぜひ芸術や文学の立場から考えていただきたい。「群馬学」はそうした専門同士が交流することによってさらに多くの可能性が発見できるのではないでしょうか。

北川:古代に関していえば、文学の背景となった文化への視点が必要だと思います。そのためには、やはり総合的なアプローチがどうしても必要ですね。考古学、歴史学、民俗学、言語学など、そうしたまさに学際的な取組がいま求められているのだと思います。今日はとても参考になりました。ありがとうございました。

榊原:美術品は、美術館などに収蔵されているものばかりではなく、個人所蔵のものも数多くあります。群馬のそうした美術品を調査・研究することによって、これまで見えなかった文化圏を浮き彫りにできるかもしれません。「群馬学」がそのようなこれまで見えなかった群馬の姿を明らかにできるものになればと考えています。

篠木:群馬という生活世界にしっかりと根をおろし、そこにさまざまに視座から光をあてて群馬を見つめていく。そこには、あらたな群馬の姿、あらたな私たちの姿が立ち表れてくると思います。そう考えるととてもわくわくしてきますね。今日は本当にありがとうございました。

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