開催日
- 平成16年7月30日
出席者
- 吉田恭三 氏(株式会社群馬銀行会長)
- 鈴木 叡 氏(群馬テレビ株式会社社長)
司会
- 富岡賢治 氏(群馬県立女子大学長)
1.群馬の風土と気質
富岡:我が大学が「群馬学」ということを言い出しましたが、とても多くの反響をいただいております。これは、やはり県民の皆様のなかに、自らの生きている生活世界を見つめ直したいという強い要望があるためだと感じております。群馬を総合的に考えていこうというこの「群馬学」は、研究者ばかりではなく、多くの方々に参加していただいて今後進めて参りたいと願っております。 上州の風土といいますと、すぐ思い出されるのが「かかあ天下とからっ風」ですね(笑)。あるいは上州人の気質というと「熱しやすくさめやすい」だとか、「義理人情に厚い」だとかと言われます。おそらく、これらがいま多くの方が抱いている群馬のイメージではあると思うのですが、こうしたイメージはかなり前からあるんですね。たとえば、『人国記』には、群馬の気風は信州によく似ているが、上州の方はもっと義理固くて他に臆することがないと書いてありますし、杉田玄白も、上州の人の心は「堅固」、頑固である(笑)とまで言っています。ただ、私は、一般に持たれているこうした群馬のイメージからいったん離れて、群馬をもう少し幅広い視座からいま一度捉え直してもいいのではないかと思っています。
たとえば、ことばという観点からすると群馬は東と西のことばが混在していると言われていますし、山間部には江戸のことばが残っているとも言われます。文学の面から言えば、朔太郎をはじめとした短詩型文学がなぜ群馬には多いかという問題もあります。その外にも、古墳の多さ、上毛三碑の存在、渡来人とのかかわりなど、さまざまな未解決の問題があることに気付かされます。そして、この地の文化を広く捉えようとする時、交通の要衝であることを背景とした人々の滞在型文化であったとか、異文化が共生する開放型文化であるとかという考え方も成り立ってくる可能性もあるのではないかと思われます。
このように、私は群馬という地はとても面白い地域だと考えているのですが、本日は、吉田会長と鈴木社長に御足労いただきまして、群馬の特徴を、とくに経済人の観点からお話を伺いたいと考えております。
吉田恭三氏
吉田:「群馬学」といった場合、個々の事象の研究というのはそれぞれに有益だと思いますが、私は、やはり大きな歴史の流れのなかで考えることがとても大切だと思います。そうしないととりとめのないものになってしまうんじゃないかな。経済というものも、それで独立しているものとしてではなく、人・物・金のかかわりを歴史の流れのなかでとらえる必要があると思います。たとえば、古代の大和朝廷と対立していた国として、磐井・出雲・吉備などがありますが、そのなかにはこの毛野国も入っているんですね。この毛野国はひとつの独立圏、独立王国といったものを形成していたのかもしれません。奈良の大仏を作った時に、毛野国に対する人や物の割り当てがかなり大きかったことから考えると、この地は、古代からすでに大きな経済力を、人・物・金の面で持っていたのではないかと思われるのです。その大和朝廷と毛野国はやがて講和、合体していく。その交流の過程で重要になるのが道による東西交流で、経済的にも重要な観点だろうと思います。「東海道」「東山道」という道がありました。これはシーズン・ロードとして機能していたのではないかと思っています。
富岡:シーズン・ロードとは?
吉田:ええ、季節によって使い分ける道です。「東海道」「東山道」、この名には「海」と「山」がついています。つまり、海の道と山の道。夏になって川が氾濫すると山の道を使い、冬になって雪が降ると海の道を使っていたのではないか。そうした古代人の知恵というものがそこに見られるのではないかということです。
富岡:なるほど。
吉田:一方、このような古代の西との交流に対して、幕藩体制になると、江戸との交流が中心となります。江戸はその時代から人口過密都市で今と同じような状況があったんですね。商売から考える場合もそうした観点が必要です。たとえば、群馬の糸が広がったのは、質はもちろんですが、そのコストの面に目を向けなければなりません。群馬と江戸との間は、水運がかなり発達していました。当時最もコストが高かったのは、人力。その次が車。最も安かったのが水運なのですね。江戸時代の群馬の経済を考える場合、そうした物流の観点が必要になると思うのです。
富岡:おもしろいですね。
吉田:ええ。こうした経済の観点からすると、当時最も税率が高かったのが米なんですね。だからいわゆる米所と呼ばれているところは、逆に生活が苦しくなるわけです。それに対してコンニャクや養蚕などは税率が低かった。しかも、群馬は天領が多く、比較的治安がよかったところだと思います。したがって、江戸時代の群馬は、ほどよく豊かでほどよく貧乏だったということができると思います。つまり「まあまあ」の状況が続いているところなのですね。
富岡:そうした風土は群馬の経済人の気質と関係していますか?
吉田:群馬の経済人は、皆さんとても謙虚です。鈴木さん、どうです最近の業績は?と聞くと、いいですよという人はほとんどいない(笑)。まあまあと答える。「まあまあ」というのは平均値より少し上というところでしょうか。だけれど、実際やってらっしゃることは、まあまあどころではないのですね。やるべきことは、しっかり先駆けてやってらっしゃる。これが群馬の経済人のひとつの特徴なのではないでしょうか。戦後残っている企業のほとんどはベンチャー企業です。それは、先を見て、しっかりと対応していくからこそできるんですね。そうしたことは、やはり古代から続く群馬の風土と深く関係しているのではないかと思っています。
富岡:とても興味深いお話ですね。やはり経済ということも長い歴史観からとらえなければならないということですね。
2.群馬の経済人の気質
富岡:鈴木社長は、近世について大学院でも学ばれたと伺っていますが、吉田会長のお話を受けていかがですか?
鈴木:吉田会長から長い歴史からの興味深いお話がありましたので、私は近世後半から現代に至るなかでのとくに群馬の工業化という点から少しお話をさせていただきたいと思います。
富岡:お願い致します。
鈴木叡氏
鈴木:群馬県は、もちろん米作やその他のコンニャクなどの生産もありますが、幕末から明治期には特に養蚕業が盛んになってきます。そうすると、現金の流通が激しくなってきます。肥料も現金で買うし、そのかわり売ったものも現金で入ってくるようになるのですね。いわゆる「江戸地廻り経済圏」に上野国が組み込まれていくことになるのですが、一方で、米の生産が少ないところは信州から買い入れていくことになります。必然的に金銭による収支もあがってくるわけです。ただ、それで農民が潤ってきたかというとそうではなくて、厳しい生活を送らねばなりませんでした。特に、幕末になって物価が上昇してくると、米だけを作っていればよかった昔にもどしてくれという「世直し一揆」がでてきます。これは、幕末の群馬ではそれほどまでに養蚕業が盛んになってきたことを示しております。養蚕によって産業が発達し、いわゆるマニュファクチュアに匹敵するようなものがでてきて、現在につながる発展を遂げてきたのだと考えています。
富岡:群馬の産業を考える場合、やはり養蚕というものが大きいのですね。
鈴木:そうですね。それとともに群馬の産業を考えるうえで大切なことは、人づくりの問題ですね。群馬では戦前から中等教育における工業教育を特に力を入れているんです。まだ精査はしていないのですが、群馬では工業高校の生徒数は全体の8パーセントを超えていて、関東四県のうちで抜きんでているんですね。こうした工業教育が群馬の産業に対して大きな影響を与えているのだろうと思っています。
富岡:そうしたなかで、群馬の経済人の特徴はどのようなものとしてお考えですか?
鈴木:先ほど吉田会長からもありましたが、群馬ではベンチャー企業で成功された方が多いのです。それは工業だけではなく、流通の面でもありますね。こうした経済人の精神的な背景には、新しいものにチャレンジするという精神が大きくあるのだろうと思います。歴史を遡りますと、群馬には大藩がなかった。一番大きな藩が、前橋藩の17万石でしたが、1770年から藩主は川越におりまして、約100年間藩主がこちらにいなかったのです。その他、この地は幕府領や旗本領が多くあって分断されていたのですね。そうした状況が、逆に明治になって自由闊達にいろいろなものがスタートできた要因になっていると思います。群馬の経済人は自ら業を起こして成功された方が多い。そうした方々は、実は慎重で、普段からよく勉強し、先をしっかりと見つめている方々なんです。そうした意味でのチャレンジ精神は、やはり今申し上げた群馬の風土といったものが背景になっているように思います。
富岡:なるほど。よくわかりました。
3.群馬の精神風土
富岡:吉田会長からは「まあまあ」という気質のお話、鈴木社長からは「チャレンジ精神」のお話がありました。確かにあまり豊かではない状況だとチャレンジ精神も生まれませんね。
吉田:薩摩や長州だとかは、非常に反骨精神がありますね。そうしたところとは群馬は違うのですね。群馬にはやはりほどよい豊かさがあった。それが「まあまあ」ということなのです。先日、萩に行ってきましたが、吉田松蔭があそこで教えたのは一年ぐらいなのですね。そこに若者たちが押し寄せてくる。その激しさはすごいものだったのだろうと思います。
富岡賢治氏
富岡:群馬はちょうどほどよいからそうした気運が出てこないのかな(笑)。
鈴木:群馬にも人材はいたんでしょうが、その頃は、前橋藩の本拠は川越で、あとは小藩でしたから、面に出にくかったのではないでしょうか。
富岡:そうですね。ただ、群馬には、チャレンジ精神はあっても、長期的に反骨精神をもって猪突猛進するということがありませんね。
鈴木:群馬の場合も世直し一揆や、明治にも宮部襄などの自由民権運動があって反骨といったものがないというわけではないんでしょうね。
富岡:基本的なところにはあるんでしょうがね。ところで、先ほどお二人から少しありましたが、群馬は流通が得意だということはあるのでしょうか?
吉田:得意ということではないと思いますが、群馬の経済人は知恵を持っていると思うのです。ベンチャー企業もやっぱり知恵ですよね。ビールでも酒でも色々な種類を出さなきゃならない。結局は知恵なんですね。流通も、いかに仲介するかということで、先見性、つまり知恵だと思います。
富岡:なるほど。それから、群馬には北陸からやってきた方が多いと聞いていますが、他を受け入れる群馬の気質というものがあるのでしょうか?
鈴木:私は、幕府による関東の統治政策が背景にあるのではないかと思います。群馬には大藩がなく、所換えも多かったようなんです。その当時から閉鎖的ではない気質があったのではないでしょうか。そして、江戸ともよく交流していたのですね。江戸まで3、4日で行ってしまう。そうした交流が開放的にしていたのだと思うのです。
富岡:『新人国記』でも「上州人は割拠分立の気風殊に盛ん也」とあり、更に「三百年来、挙国統一の気風を欠く」などといった記述が見られますが、そういう気風が地域の様々なサロンを形成していったんでしょうね。
鈴木:そうですね。とくに江戸との交流は盛んでしたから、江戸の情報や文化などはここに流れてきていたのだと思います。
吉田:文化の面から言えば、蘭学と国学の影響の違いということもあるのではないかと思うんですよね。日本の江戸時代は鎖国と言われていますが、蘭学が多く入ってきました。その蘭学の影響を受けた地域と、国学を学んだ地域は違うのではないかと思うのです。大村益次郎なんかは微分積分を教えていたといいますが、こちらは関孝和の和算です。結果は同じかもしれませんが、やはり考え方は違ってくると思うのです。
富岡:それはおもしろい御指摘ですね。
4.群馬学に期待すること
富岡:私どもの大学では、来年度から英語教育に力点をおいた国際コミュニケーション学部を立ち上げますが、それと同時に地域を勉強しなくてはいけないということで、日本や群馬のことばと文化についての研究や教育に力を入れているところです。考えてみますと、私も高校時代まで群馬におりましたが、群馬について教えてくれる先生がいませんでした。今の子どもたちも地域について勉強するという機会があまりないのではないかと思います。これを契機に若い人たちにも群馬のことを知ってほしいと願っています。
最後になりますが、これから、さまざまな方々の参画を得て群馬のことを総合的に考える「群馬学」を確立したいと考えていますが、何か励ましのことばなどをいただきたいと思うのですが。
鈴木:私どもの報道機関の責任もあると思いますが、最近、農村のどこに行っても同じ風景が広がっているようになってしまいました。昔に戻った方がいいというわけではありませんが、これからの群馬を担う人たちに、群馬の特色や歴史や風土などを総合的に知ってもらい、関心をもってもらうということが大切なことだと思います。私もテレビという映像を通して、これからの「群馬学」を深めていく、その一翼を担わせていただければと考えております。
吉田:まず、冒頭に申し上げた歴史観が大切でしょうね。それから何をやるにしても全員賛成ということはありませんので、それを恐れずに、かつ、お互いに認め、お互いに高めていくという姿勢が必要だと思います。それぞれの立場の方々がお互いに認め合いながら、議論を深めていく。そうしたことが今後とても大切になるんじゃないかなと思います。
富岡:ありがとうございます。私も勉強しはじめますと、同じ町を見ても新鮮に思えるようになりました。こうしたことが地域の文化発信の契機になるのではと考えております。今後ともぜひお力添えをお願い致します。本日は本当にありがとうございました。